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2013年 05月 28日 |

「なんらかの事情」
岸本 佐知子 (筑摩書房)


ある人が言っている。翻訳者の技量を知りたければ、彼/彼女が日本語で書いたエッセイを読めばいいと。
↑って、いま私がでっちあげたんですけどね。

岸本佐知子の文章のファンです。翻訳も大好き。「変愛小説集」とか変すぎて、こんな小説を読んで訳して出版するなんてどれほど変わった人なんだろうかと勝手に想像して楽しんでいます。


「なんらかの事情」 もいろいろと変なエッセイがたくさん収められているのですが、いちばん頭をぶん殴られた感があったのが


ダース・ベイダーも夜は寝るのだろうか。
二週間ほど前にその考えが浮かんで以来、ずっとダース・ベイダーのことを考えつづけている。
数々の悪の執務を終えて、一日の終わりに自室に下がるダース・ベイダー。それはどこにあるのだろう。


で始まる「ダース考」。
“悪の執務”ですよ、“悪の執務”!!
百歩譲って私が無知で(スター・ウォーズ見たことないから)、ダース・ベイダーの所做所為を「悪の執務」という専門用語をもって表されることを知らないだけだとしても、


執務を終えてダース・ベイダーは自室に下がる。黒マントを脱いでハンガーにかける。手袋を取って台の上に置く。ブーツも脱ぐだろうか。マントの下に着ている、あの鎧みたいなものも脱ぐだろうか。脱ぎながら、何を考えるだろう。私たちが夜、服を脱ぎながらぼんやりと心をさまよわせる、そんな瞬間がダース・ベイダーにもあるのだろうか。

「ダース考」
「なんらかの事情」 岸本 佐知子



「私たちが夜、服を脱ぎながらぼんやりと心をさまよわせる、そんな瞬間」っていう表現は、凡百の小説家を超えてませんか!ダース・ベイダーが意識の流れにのって夜のダブリンにさまよい出てしまいそうよ。


他にもプーチンの代わりに同志ボリス・エリツィンの追悼演説原稿を考えてみたり、「国はこれを不服として」の「国」の人格を想像してみたりとか、言葉によって日常がとつぜん非日常になる散文がたくさん収録されています。

言葉の感覚が鋭いから翻訳家になるのか、翻訳家だから言葉の感覚が鋭くなるのか・・・
翻訳家のエッセイって面白いです。


しかし実はこの本で驚いたことがもう1つあって、奥付に

本書をコピー、スキャニング等の方法により無許諾で複製することは、法令に規定された場合を除いて禁止されています。
請負業者等の第三者によるデジタル化は一切認められていませんので、ご注意ください。


いまはこんな注意書きがついてるんですね。

ところで「第三者」って中国語だと「愛人」(配偶者じゃなくて外偶のほう)を思い浮かべてしまうわけですが、最近は「第三者」を「小三」って愛称(?)で呼ぶんですね。
最初見たときは「中二病」みたいなものか?と思っちゃった。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2013年 04月 08日 |
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」
山浦 玄嗣 (翻訳) (イーピックス出版)


聖書の内容はなんとなく知ってても、本文をちゃんと読み通せたことがありません。何度か挑戦したけどいつも途中で落伍してしまう。
「ガリラヤのイェシュー」を読んで、これまでの聖書は訳文が自分に合ってなかったんだなーと思いました。
(クリスチャンじゃないので、宗教書としてではなく翻訳文学として楽しんでいます。英文学などを読むときに教養として必要だからです。)


出版社のサイトより転載

イエスの活動した二千年前のユダヤ社会は厳しい身分制度がありました。
王に家臣、商人や地主などの富裕層。商人や地主のもとには自作農や小作農がいて、 零落した日雇いの労務者、そして奴隷がいました。
そんな混沌とした社会を分かりやすくする為に、 幕末から明治維新かけて使われていた日本語を擬似的に用いることを試みました。
地の言葉「公用語」は関東武家階級の言葉に似せる。
ガリラヤ出身のイエスとその仲間は 東北地方の農民の言葉。
イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う―。

例えば…
ガリラヤ衆はケセン語や仙台弁、盛岡弁。
ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。
領主のヘロデは大名言葉
ファイサイ衆は武家用語
イェルサレムの人々は京言葉。
商人は大阪弁。
サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。
イェリコの人は名古屋弁。
ユダヤ地方の人は山口弁。
ギリシャ人は長崎弁。
ローマ人は鹿児島弁。
全国各地の多彩な方言が飛び交います。



いろんな方言が飛び交って群集劇みたい。
地の文はお武家さんでござる。
ピラト卿は薩摩隼人、イェルサレムの神官たちはお公家さんどす。


「そしたなァ、お助けさァぢゃつちゅう此(こ)んイェシューをば余(おや)は如何(どゲん)したらよかろかい?」
人々は口を揃えて言った。
「磔にしとくれやす!」

マタイ27章-153
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」


いや~京都弁のおかげで神官の意地悪さがよく出てるのでござるよ。
「お助けさま」というのはいわゆるメシアのことでしょう。「救世主」より身近な感じ。

ピラト卿はユダヤ人たちがやいのやいの要求ばっかりしてくるので、最後は「チェストーッ!」と怒ってしまうのでござる。


いいなあ東北弁って、あったかくってと思えたのもこの本を読んでよかった点。イェシューがとっても身近に感じられます。
女の子から悪霊を追い出してやったあと


「この事は(ゴどア)誰に(だれさ)も語りァすんな。あ、それがらな、この童女(わらし)に何が食(か)せでけらっせァ〔食べさせておやりなされ〕。」

マルコ5章-43


ここは口語訳聖書では
イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
のように訳されてるようです(ネットで拾ってきたので不確か)。
訳し方ひとつでまったく違うキャラクターになってますね。


すごく心を打たれたエピソード。
一人の人が「いつでも明るく活き活きと幸せに生きるようにしていただくには、何をすればようございますか?」と聞きにきます。


イェシューさまはその人をつくづくと眺めて、それから、やさしくこう言いなさった。
「お前さんに足らないことが1つある。行って、持っている物を売って乞食どもにくれてやれ。そうすれば神様のお膝元に宝を積むことになる。そうしてから、さあ、俺について来い。」
この言葉を聴いたその人は青菜に塩と萎れ返り、ガッカリして去って行った。大した財産をどっさり持っていたのにでござるぞ。

マルコ10章-59


「さあ、俺について来い。」って親しみがあっていいよね。
すごく感動してたら、イェシューは


「金持ちが神様のお取り仕切りに入るよりも、駱駝が針孔(めど)を潜るほうがまだラクダ!」

マルコ10章-60



ガチョ~~ン!
当たり前ですが普通の口語訳聖書には駄洒落はありませんでした。
面白いダジャレなのにもったいない。誰も思いつかなかったのか?


良いところはたくさんあるのですが、いちばん好きな部分

「お前達の(めァだぢァ)中で偉ぐなりでァど思うものは(ものァ)かえって皆さまの僕になれ。お前達の(めァだぢァ)中で一番目の者になりでァど思う者は(ものァ)皆さまに扱き使われる下人になれ。《人の子》たる俺の志すところは(どゴろァ)、人様を(ひとさまァど)扱ぎ使っていい思いをすることでァねァ。人様のお世話をして差し上げることだ。亦(まだ)、皆々さま大勢(てァぜん)の身代わりになるどって〔なるとて〕、この命(いのぢ)もささげ申(も)すことだ。」

マルコ10章-63



ここは口語訳では
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
となるようです。
雰囲気ぜんぜん違いますね。


読んでよかった。収穫でした。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2012年 08月 12日 |
『新編 対の思想―中国文学と日本文学』
駒田 信二( 岩波書店)

駒田 信二先生といえば中国文学の大御所だけに中国への理解力も超越してらっしゃったんじゃないかしら、とか勝手に思っていたのですが、あらためて著書を読んでみると、普通の人と同様に中国とどう向き合うか日々試行錯誤しておられたのだなあと親近感を覚えました。
(普通の人よりずっと真剣に向き合っておられたというのもよく分かりました)


吉川 英治「三国志」の種本について考察した部分。


『三国志演義』の翻訳者である立間祥介氏がつぎのようなことを書いている。
・・・吉川「三国志」の読者という方から、きついお叱りの投書をもらったことがある。/お前の訳書は原典から訳したといっているが、吉川「三国志」とはまるで違い面白くない。もっと原典忠実にやれ。
立間氏のところへ行ったのと同じような投書を、私も十何通か受けとったことがある。私の『水滸伝』(平凡社。立間氏の『三国志演義』も同じ)を買ったという読者からのもので、彼らはみな吉川英治本『水滸伝』の読者なのだった。
吉川英治の『水滸伝』が途中で終わっているので、おまえの『水滸伝』を買ったが、百二十回本の完訳だといいながら、省略が多すぎる。看板にいつわりありではないか。例えば「この話はそれまでとする」とか「くどい話はぬきにして」などと勝手に省略しているくせに、なにが「完訳」か。
大体そういう投書だった。「この話はそれまでとする」とか「くどい話はぬきにして」とかいうのは『水滸伝』の語り癖なのである。翻訳だからこそそのまま訳しているのに、読者は訳者自身が「それまで」としたり、「ぬきに」したりしているのだと思ったようである。
(略)
だが翻訳となれば、これは私自身の例だが、原典に「不在話下」とあれば「この話はそれまでとする」と訳さなければならないし、「話休絮煩」とあれば「くどい話はぬきにして」と訳さなければならなのであって、そこにはまた、それなりのおもしろさもあるのだけれども。

「翻訳と語りなおし」
『新編 対の思想―中国文学と日本文学』駒田 信二



確かに三国演義も水滸伝も現代人が読んで面白い本ではないですが・・・昔の日本の読者って無邪気だったのね。

それで吉川 英治「三国志」の種本のところに『通俗三国志』のことがありまして


「通俗」というのは、今日使われている言葉の意味とはちがって、中国書の翻訳のことをいう。俗に通じるようにする、中国文の読めない一般の人に読めるようにした、という意味である。

「翻訳と語りなおし」



・・・知りませんでした・・・「俗っぽい三国志」なのかと思ってた(無知)

ところで(唐突ですが)、関羽の顔がよく「重棗」と形容されていますが、重棗って何かご存知でしたか?


この<面如重棗>の<重棗>が問題である。
立間祥介氏はこれを
・・・顔色はくすべた棗のごとく・・・
と訳している。

「関羽の顔の「重棗」について」



立間祥介氏は曲亭馬琴が「万暦版の演義三国志を見るに、面如薫棗とあり・・・」といってるのを根拠に薫→重の筆写ミスと判断したそうです。


小川環樹氏は同じところを、つぎのように訳している。
・・・顔は熟した棗のように赤黒く・・・

「関羽の顔の「重棗」について」



小川環樹氏の典拠は魯迅の「重棗」とはどんな棗であるか、わたくしは知らない。要するに赤い色には違いあるまい」という文章だそうです。みなさん博識ですね・・・
(「紅表忠勇,是從關雲長的“面如重棗”來的。“重棗”是怎樣的棗子,我不知道,要之,總是紅色的罷。在實際上,忠勇的人思想較爲簡單,不會神經衰弱,面皮也容易發紅」魯迅《且介亭雑文》)


水滸伝にも同じような表現が出てくるそうです。


吉川幸次郎氏はここをつぎのように訳している。
・・・棗を重ねたやうな顔つきにて・・・


「関羽の顔の「重棗」について」



そして駒田 信二先生ご本人は


私は<重棗>の<重>を「大いなる」と考えて、「大きな棗」と訳したが、これは、立間氏の「くすべた棗」を取る確信もなく、小川氏の「熟した棗」を借りることも憚られたからである。吉川氏の「棗を重ねる」も棗の実の群がり成っている形として心ひかれたが、これを取ることもやはりできない。翻訳者のつらさがここにある。誰が訳してもそうとしか訳せないところはともかくとして、ひとりの役者が苦心して考え出した訳語を、易々として頂戴するわけにはいかないのである。

「関羽の顔の「重棗」について」



ひとつの訳語にもいろんな工夫がこらされているのがよく分かりました。

ところで私も「重=腫」で「はれぼったい棗のような顔」という説をいま思いついたので発表してみます。
無根拠です。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2012年 03月 08日 |
d0127061_211287.jpg「英語は女を救うのか」
北村 文 (筑摩書房)



筑摩書房のサイトより

それは「幸せ」への扉!?
英語に憧れる女性は少なくない。英語力を活かして仕事をする女性も多い。ならば英語は女を「救う」のか? 女性たちの声に深く耳を傾け、その現実に迫る。



うまいタイトルです。
華やかに見える英語のお仕事も舞台裏は楽じゃないのよ、という体験談がいろいろ語られて興味深い。

よく言われる女性のほうが語学に向いてるとかいう説についてちょっとドキっとすることが書いてありました。


学校の英語の授業でも英会話スクールでも、授業中に元気があるのは女性だとか、旅先で外国人とのコミュニケーションに熱心なのも、ワーキングホリデーや留学に積極的なのも、女性のほうだと言われる。なぜなら、女性脳は男性脳に比べて語学の習得に向いているからだとか、いやいやそういうことではなく、女の子は左脳が発達するように教育されてるから語学が得意なんだとか、言いたくなる人もいるだろう。
しかしながら、女たちが英語に向かうのは、彼女らが救われたいから、そして今ある彼女らの現実が救われないからだ、ということも言われてきている。社会学や人類学、社会言語学や応用言語学といった分野の研究者たちは、「周縁化」「家父長制」「抑圧」といったキーワードでこのことを説明する。
日本の社会は男性中心主義で、女性は職場では単調な仕事ばかりを押しつけられ、家庭では家族に尽くすことを期待される。いずれの場においても中心的な役割を担うのは男性ばかりで、女性はすみっこで補助的なことばかりをやらされる。当然、経済的にも不利な状況におかれるし、社会的地位は低いままだし、自由は奪われている。こんなやりがいのない仕事はいやだ、生きがいのない人生はいやだ、という救いのなさこそが、女たちを英語に突き動かす原動力だと言われる。

「英語は女を救うのか」 第1章 英語と女



この本を読むと「語学を生かしたお仕事」で食べていくのは大変そうだと分かります。
せっかくなのでインタビューのプロフィールに現在の年収も書いてもらえると参考になったのに。


そして、疑問に思ったのは、通訳や翻訳や語学教師が労力のわりに報酬の安定しない仕事というのはよく分かったのですが、こういう職種には同業者組合みたいなものはないの?みんなで団結して報酬アップを要求したりしないの?ってことです。

中世のギルドや昭和の労働争議みたいな汗臭いのは嫌なんじゃ~!という独立心の強い人たちだからこそ、組合とかにわずらわされない語学の仕事に就くのかな?それで報酬や労働条件が保障されないのかしら・・・(そりゃ企業でも組合なんてあってもあんまり意味ないことも多いですが)


会社やめて語学方面に進もうと思ってる人は辞表出す前に読んどくと良い本だと思います。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2012年 01月 24日 |
ふと思い出したこと。
『三国志英傑伝 関羽』を映画館で楽しく見てたわけです。

曹操が劉備の魅力の源泉(笑)について関羽に尋ねるシーンで


關羽:劉大哥的方法你學不來。
(劉大哥のやり方はあなたには真似できない。)

曹操:是因為我們這兒沒有恨?
(わしのところには恨がないから?)

關羽:也沒有情。
(そのうえ情もない)



そのあとの曹操のセリフ

曹操:那好辦。
關將軍過來,就什麼都有了。



うろ覚えですが(いつもうろ覚えsorry)日本語字幕は「来てくれればなんでも与えよう」って感じになってました。

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そういう解釈もあるか。

私は
「それなら良い方法がある。関将軍が来てくれれば、すべてが揃う。」
という意味かと思ってました。

文の後半の主語の解釈の違いと思われます。

A.關將軍過來,就什麼都有了。
(関将軍がくれば、関将軍は何もかも手に入れる。)

なのか

B.關將軍過來,就什麼都有了。
(関将軍がくれば、曹操は何もかも手に入れる。)

中国語はよく主語を省略するので文章の意味がとりにくいですね。



曹操は情がないと言われて傷ついたのか張遼に
「部下も押さえがきかないのに国家なんて治めてられん。関羽に我らには情がないって言い当てられちゃったよ」
とこぼして
「押さえがきかないのは我らに情があるせいですよ」
と慰めてもらってた。
・・・甘えるな孟徳・・・うらやましい・・・

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今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2011年 06月 27日 |
「復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録」を読んでたら何だか辛くなってきたので、「私の日本語雑記」を先に読みました。こっちは気軽に読めて楽しい。

d0127061_195340100.jpg私の日本語雑記
中井 久夫
岩波書店




中井先生の本はどのジャンルを読んでも得るところが多い。

日本の翻訳文体について


「英文解釈法」という日本独特の方法は最近まで基本的な英語解釈読解法であったが、元祖はペリーのもたらした日米間の条約の解釈であるという。公使ハリスが条約の違反に抗議してきた時、達意の日本文だった日本語版の条約文では、ハリス指摘の箇所がどこかわからない。幕府は通辞に命じて、いかに滑稽に聞こえてもよいから一語一語を逐語訳せよとした。「~するところの」式の翻訳文はこうして生まれた。この文体は不平等条約の傷痕である。

6 生き残る言語



日本人が必死に外国文化を取り込もうとした結果があの文体なのですね。
中国語についても面白いことがいろいろ書いてあった。


中国語は古代から孤立語だった。しかし元来はどうか。格助詞のような文法的小道具があったが、布の貴重さ、竹に彫る手数の故に省かれ、ついで失われたという推測を聞いた。
かりにそうだとしても、それとは別に、西から来た少数の周人が平原に住む多数の殷人を征服したようなことは繰り返し起こったにちがいない。「歳」と「年」など、同じ意味なのに二種類ある文字は、一方が多数被征服者である殷人の、他方が少数支配者である周人の字であると教わった。

6 生き残る言語



数千年前にすでに異文化(っていうのか?)の言語が混ざってるのでは、現代中国語がごちゃまぜ感ありなのも仕方がないですね。
竹に彫るのが面倒だったから省略というのが他人事と思えない・・・


言葉はわかりやすいほどよいというのは、たいていの人の固定観念かもしれない。しかし、片言のような未熟言語がないのはそのような言語は生き残れなかったということではないか。(略)
言語世界は一種のジャングルであり、個々の言語はそこに生きる生物であるとみることもできる。生物が一方で捕食法を発達させつつ、他方では針や刺や毒物や何やかやで武装しているように、英語の複雑な綴り字もわかりにくいイディオムも、ハングルの「パッチム」の難しさも武装である。(略)「簡単にわかってたまるか」という防壁でもある。その他どの言葉にもあるあらゆるとっつきにくさも、文化防衛的バリヤーでもある。これがあって初めて、外来の言語文化を安心して取り入れることができる。

6 生き残る言語



パッチムが苦手なのですが(みんな苦手よね)、これも韓国語(とハングル)の防御なら「ふふふ、愛いやつじゃのう抵抗しても無駄じゃぞ・・・」と優し~くしてあげようと思いました。


「拾遺愚草」に残る藤原定家の漢詩和訳というのが載ってて、あまりに自然な日本語(和歌だから当然)に翻訳されてて驚きました。

漢詩の日本語訳(書き下し文っていうのか)の生硬な文体が嫌いなので、やればまともな日本語に翻訳できるじゃないか!と一瞬思ったのですが、これも条約の翻訳と同じで不自然な訳文が必要だったからあーゆー文体になったのでしょうか・・・そうは言っても定家の和訳のほうが美しい。


往時渺茫都似夢
舊遊零落半歸泉

見しはみな夢のただちにまがひつつ昔はとほく人はかへらず

南窗背燈座
風霰晴紛紛

風のうへに星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く

15 日本語長詩の現実性



もとの漢詩はこれかな?

《三游洞序》白居易
往事渺茫都似夢,舊遊零落半歸泉

《村雪夜坐》白居易
南窗背燈坐,風霰暗紛紛


中国語をやってよかったと思うのは白居易のどこが良いのか分かるようになったことです。
普通話で読んでもリズムが素晴らしい。当時の音で朗読するともっと美しいんでしょうね。
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2010年 12月 22日 |
「悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳」


出版社/著者からの内容紹介引用
「恐竜」は誤訳である。
ベストセラー「利己的な遺伝子」等の翻訳で知られる著者が、あまたの憂うべき誤訳・迷訳の中から、49の重要用語に注目。誤りの原因を丹念に調べ、現状の混乱ぶりを描き出す。滋味溢れる博覧強記の翻訳《語》エッセイ。

いろいろ面白いうんちくが傾けられています。勉強になりました。

日本語訳の『聖書』に登場する「いなご」について。


残念ながら、厳密に言えば、これは誤訳である。英訳『聖書』ではlocustとなっているのだが、この単語は、バッタ類を指すものであって、イナゴではない。
(略)
群生相のバッタは大集団をなして移動し、その通り道にある田畑に壊滅的な被害を与える。これを中国では飛蝗(ひこう)と呼んでいる。トノサマバッタもこの仲間で、明治時代の北海道などで飛蝗の例がごく少数知られているものの、ふつう日本では群生型のバッタはめったに見られない。そのため、中国の知識を移植した日本では、「蝗」の字を、しばしば大発生してイネを害するイナゴ(稲子)やウンカ(雲霞、浮塵子)の類であると解釈した。(略)
明治時代にプロテスタント諸派が和訳『聖書』をつくるために翻訳委員会を組織したが、翻訳作業の中心メンバーの一人は、ローマ字表記の父、J・C・ヘボンだった。ヘボンが時間の節約のためにすでにあった漢訳『聖書』からの転訳をもとにしていた(略)。

イナゴ locust
「悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳」
垂水 雄二 (八坂書房)



日本の農作物で被害が大きいと言えば稲ですもんね、中国語の「蝗」が「イナゴ」と理解されたのも無理はないのでは。
でも中国の史書によく出てくる「飛蝗」ってバッタだったんですね・・・分かってるつもりで分かってない中国事情・・・

西洋の言語から日本語に翻訳された動植物名には中国経由のものもあったというのが意外でした。
なんとなく清代あたりの中国=ダメダメな国って先入観があって・・・でもちゃんと西洋文明の研究もしてたんですね。
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2010年 12月 16日 |
「翻訳の基本―原文どおりに日本語に」
宮脇 孝雄(研究社出版)


勉強になる本でした。

気をつけようと思ったところ:
作者が使っていない単語に注意する(ex:美しいものを描写するときに「美しい」を使わない)、やたらと疑問文にしない、「ですます」体は難しい、「~のだ。」で終わらない、「~してやった」(ex:笑ってやった、言ってやった)は多用しない、「さわやか」ばかり使わず「爽快」「すっきりした」など言い換えを工夫する。

sweetsについてこんな記述が



英国系航空会社の飛行機に乗ると、スチュワーデスが、
「sweetsはいかがですか?」
といいながら、通路を歩いてくる。このsweets(複数形)というのは飴やキャンディのことだが、ご承知のように、sweetsという名詞には「デザート」という意味もある。
(略)
ところが、デザートをsweetsというのは、イギリスでは、中流に届かない階層の人々であるといわれている。親しみやすいが、改まった席では使われない。

Ⅱ イギリス言葉にご用心
「翻訳の基本―原文どおりに日本語に」
宮脇 孝雄(研究社出版)



「中流に届かない階層」というのはワーキング・クラスってことでしょうか。
私は労働者階級なので「スイーツ」を使っても良いのね。
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2010年 12月 09日 |
とても面白い本でした。
英文学について原文を読みながら講義する形になってます。

わたしにとってはものすごく大きな発見があったので自分用にメモしておきます。

最初に「あ、そうか!」と思った部分。


まずは、そんなの常識じゃない!と言われそうなことからはじめよう。ごく単純にいってのけるなら、文学作品に描かれた場面には必ず作者の意図が隠されている。それこそが、まさに、今日の第一回目の授業で示したいと思っているポイントである。
(略)
そんな至福の時間をただぼんやりとすごすのは人生の楽しみの一つだが、それに加えて、作品を作られたものとして眺め、作者の意図やねらいを意識することができれば、もっと楽しいし、この本の読者の大部分の方々がそうだと思うが、もしもあなたが文学作品についてなにか語ってみたいと思っているなら、それはぜひとも必要なことであると断言してよい。

1.場面のポイントを読み取る
「東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章」
山本 史郎(東京大学出版会)



「あ、そうか!」と思ったのは、この本に取り上げられてる小説はすべてイギリスの小説なんですけど、私はイギリスの小説を読むときに「作者の意図」を説明してもらう必要を感じたことがあんまりないんですよ。時代背景や政治情勢については説明があれば嬉しいけど、「作者はどうしてこの本を書いたのか?」と悩んだりしたことがない。

しかしですねえ、中国の現代小説を読むときにはすごく悩むの。
作者が何のためにこの本を書いたのか、作者の意図は何なのか、さっぱり分からないことがほとんどなんです。

どうしてイギリスの作家の意図は分かるのに、中国の作家の意図は全く理解できないんでしょう?日本と中国は同文同種一衣帯水じゃなかったの?

そして「ああこれか」と思ったところ。


19世紀の小説、とくにヴィクトリア朝小説には、ある一つの共通したテーマがある(とわたしは思う)。この本のねらいは、そのテーマが如何なるものであるかを明らかに示したうえで、それぞれの小説家がそれをどのように扱い、それについてどう考えているかを比較対照することによって、作家たちの類似点や相違点をあぶり出してみようというものである。このテーマとは、---この本のタイトルからも明らかなように、---登場人物たちの道徳的、精神的な成長である。彼らは最初は自分のことだけしか頭にないが、さまざまな試練を経験することによって、自分というものに対するより完全な理解へと向かっていく。このように自己中心のものの見かたに囚われた、いわば盲目的な状態から、心の苦悶や葛藤をへることによって、最終的に自己をおさえ、客観視することができるようになっていく過程は、細かいディテールをみれば作家によって様々だが、このテーマこそが19世紀小説における最大のテーマであること自体は動かないと、わたしは思う。(ジョン・ハルペリン著、1974年刊『ヴィクトリア朝小説における自己中心と自己発見』)

5.『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』の謎
「東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章」
山本 史郎(東京大学出版会)




冗談はさておき、この本のちょうど真ん中あたりでお話した、イギリス小説の大きな特徴である「目ざめのパターン」ということについて、最後に一つだけつけ加えておきたいことがある。
それは、この本で詳しく取り上げた5つの作品、すなわち『赤毛のアン』『ホビット』『高慢と偏見』『大いなる遺産』『ジェイン・エア』のどれもが、物語の大きな枠組みとしてこの「目ざめのパターン」をもとにして書かれているということだ。
それはアメリカ文学ともフランス文学ともドイツ文学ともロシア文学ともちがう、イギリス文学の特徴である。イギリス以外の小説にはこのパターンの物語が存在しないというわけではないが、とくに19世紀のイギリス文学ほどそれが顕著にあらわれている文学はどこにもない。

あとがき
「東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章」
山本 史郎(東京大学出版会)



山本 史郎氏は「目ざめのパターン」と呼んでますが、「登場人物たちの道徳的、精神的な成長」というのが私にとって小説を読むためのキーワードだったんですね。
小説を読むときには、主人公がある日、自分がいかに未熟でわがままだったかにハッと気づいて悔い改めて成長するというのを無意識に期待してたんです。
これまで私が読むのはほとんどイギリスの小説だったので、無意識の期待はあまり裏切られたことがなかった。

でも中国の現代小説はそういうパターンを踏襲してないので、私には理解できないの。
じゃあ中国の現代小説は何を描いているのか?そこが私には分かりません。

イギリス文学については良質の解説が大量に書かれてるのに、中国現代文学については日本人の一般読者が納得出来る解説書や手引書がないように思います。
私が知らないだけなんでしょうけど、もっと理解できるように解説してほしい。

「東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章」の中国文学版を出してほしいと切に願いつつ終わります。
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2010年 11月 20日 |
『随園食単』
袁牧 青木正児 訳註(岩波文庫)

清の袁牧の料理本。
袁牧ってただの詩人じゃなくてグルメだったんですね。30代で政界引退して美食の日々。

レシピはよそのお屋敷で御馳走になった料理をシェフから聞きだして書いたものだそうです。
どこのお屋敷でも一流の料理人を抱えてグルメライフを楽しんでいたんですね。
でもレストランと違って「張家のマーボ豆腐が美味しい」と聞いても気軽に食べに行けるわけじゃないので、うまいものを食べるには金も身分もコネも必要だったんですね、きっと。

ときどき料理人じゃなくてその家の主人がさっと立って前掛けつけて作ってくれる料理が紹介されてます。
高官なのに料理が上手いイイ男。憧れ。


青木正児の訳が良いですよー。「妙」に「すてき」なんてルビが振ってあって素敵。訳注も楽しい。

この本読んでて、昔の日本人は詩人の料理書の翻訳を出すほど中国に憧れと愛情を抱いてたんだなあと感じました。
いま日本で出る中国関係の本って「チャイナマネー」とか「チャイナリスク」とか散文的な本ばっかりで味気ないですね。
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