カテゴリ:■評論・評伝( 74 )
|
|
2014年 04月 08日 |
「問答有用――中国改革派19人に聞く」
吉岡 桂子 (岩波書店)

この本でインタビューを受けている人の多くは大学教授や政府高官経験者で海外経験もあるため、視野も広く談話の内容がとてもまともです。
反日デモで日本車を破壊してた中国人と同じ国の人とは信じられないほど。
朝日新聞に掲載された記事を岩波書店から発行した本なので、想定される日本の読者層も穏健な市民なのではないかと。

日中間にはまだ穏やかな大人の関係を築ける可能性が残っているんだ・・・と希望を感じます。


インタビュイーの多くに共通するのが革命家の子女で、自身も長年の忠実な党員、文革で下放され大学再開後すぐに入学してること。
そのため自分たちが祖国を正しい方向に進ませなければという使命感が強い。
ただ親の世代の共産党員が命がけで建国した国なので、今後も共産党の指導のもとで改革を進めるのが大前提、というか他の選択肢は最初から考えたこともなさそう。
いまも中南海で暮らしている人もいて、生活の苦労を知らないエリート老人たちが理想論を語ってるって印象も受けました。
(その枯れて達観した感じもまた良いのですが)

本自体もとても面白いんですけど、著者の吉岡桂子さんの人柄がうかがわれる落ち着いたインタビューにも心を洗われます。
中国で活躍する優秀な日本人ジャーナリストには女性が多いように思えますが、できる日本女性が中国でバリバリ働いてるところにすごく勇気づけられます。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2014年 02月 11日 |
「バーナード嬢曰く。 」
施川 ユウキ ( 一迅社)




読書家に見られたい(でも本を読むのは面倒くさい)女子高生バーナード嬢が古今の名作にツッコミを入れるマンガです。

お友達のSF女子にグレッグ・イーガンをすすめられたものの理解できないで悩むバーナード嬢。
SF女子の慰め方が爆笑です。


グレッグ,イーガン自身
結構よくわからないまま書いている

次はイーガンの「ディアスポラ」を貸してあげよう
冒頭から延々よくわからないから....



そっか、冒頭から延々わからないのは自分だけじゃないんだ!心にパァァと光がさしました。


外国文学の人名にも悩むバーナード嬢。


ソーニャと
ソーネチカは
マルメラードワでもあり
ソフィヤでもあって

ロージャと
ロジオン-ロマーヌイチは
どっちもラスコーリニコフの
ことなのか....

なんなの
ロシア人!!





このアウレリャノは
あのアウレリャノの息子で....
いや同一人物?
また違うアウレリャノか!
....で このホセが
あのホセとは違うホセで
えっと....ホセであって
アウレリャノでもあって....

違う!アルカディオだ!

でもあのホセ-アルカディオ
とは違うホセ-アルカディオで....

あれ?
レメディオスは何人目だコレ?

えーい くそっ


....南米め!!





面白かった~、続きが出たら買おう。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2014年 01月 27日 |
「現代中国悪女列伝」
福島 香織(文春新書)

いや~面白かった。中国女性はスケールが違いますね。
谷開来なんてまさに傾国の美女、こんな紅顔禍水が現代に存在するなんてすごい。

読んでいるうちに現代中国の政治家の人間関係もおさらいできる良い本です。

登場するのは悪女ばかりなのですが、著者の突き放していながらも暖かい語り口のおかげで憎めない人たちに思えます。
(まあ中国官僚がどんだけ汚職しようと、庶民が巻き添え食ってどれほど苦しもうと日本人の私には害がおよばない対岸の火事だからというのも理由でしょうけど)


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 07月 20日 |


さまよう魂がめぐりあうとき QUAND REVIENNENT LES AMES ERRANTES
フランソワ・チェン(著者)
辻由美(訳者) (みすず書房)


みすず書房のサイトより

フェミナ賞受賞作『ティエンイの物語』で高い評価をうけた中国系フランス作家の最新作。紀元前三世紀、秦の始皇帝を暗殺しそこなった荊軻、その十年後にふたたび皇帝を狙う打楽器筑の名人高漸離、二人の男と友愛で結ばれる春娘。この男女三人の織りなす運命を、ギリシア古代劇のように語るこの小説は、三つの魂がめぐりあうクライマックスで詩となって謳いあげる。


表紙の「魂兮歸來」の4文字に惹かれて手にとりました。
たまたま平台に置いてなかったらめぐりあえなかった・・・

フランソワ・チェン(中国名:程抱一)はフランス留学してたら文革が起こって、中国に帰れなくなった中国人作家だそうです。

表題作の「さまよう魂がめぐりあうとき」は荊軻、高漸離、春娘の三人の物語なんですけど、半分詩みたいで、私にはちょっと難しかった。
面白かったのは翻訳者との談話「縁組した言葉で作家になること――フランソワ・チェンに訊く(辻由美)」。

中国人がフランス語で書いてアカデミー・フランセーズ会員にまでなるってすごいですよね・・・
自分で詩を書くだけでなく、中国の古典詩についての研究書もたくさん出してるようです。


ところでフランス語圏の中国人作家って、日本の出版社にも読者にもとても愛されてる感じがするんですけど。
中国の中国人作家って日本の出版社にあまり愛されてる感じしないんですけど。
おフランスの作家のほうが高尚なイメージだし。表紙も綺麗。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 05月 28日 |

「なんらかの事情」
岸本 佐知子 (筑摩書房)


ある人が言っている。翻訳者の技量を知りたければ、彼/彼女が日本語で書いたエッセイを読めばいいと。
↑って、いま私がでっちあげたんですけどね。

岸本佐知子の文章のファンです。翻訳も大好き。「変愛小説集」とか変すぎて、こんな小説を読んで訳して出版するなんてどれほど変わった人なんだろうかと勝手に想像して楽しんでいます。


「なんらかの事情」 もいろいろと変なエッセイがたくさん収められているのですが、いちばん頭をぶん殴られた感があったのが


ダース・ベイダーも夜は寝るのだろうか。
二週間ほど前にその考えが浮かんで以来、ずっとダース・ベイダーのことを考えつづけている。
数々の悪の執務を終えて、一日の終わりに自室に下がるダース・ベイダー。それはどこにあるのだろう。


で始まる「ダース考」。
“悪の執務”ですよ、“悪の執務”!!
百歩譲って私が無知で(スター・ウォーズ見たことないから)、ダース・ベイダーの所做所為を「悪の執務」という専門用語をもって表されることを知らないだけだとしても、


執務を終えてダース・ベイダーは自室に下がる。黒マントを脱いでハンガーにかける。手袋を取って台の上に置く。ブーツも脱ぐだろうか。マントの下に着ている、あの鎧みたいなものも脱ぐだろうか。脱ぎながら、何を考えるだろう。私たちが夜、服を脱ぎながらぼんやりと心をさまよわせる、そんな瞬間がダース・ベイダーにもあるのだろうか。

「ダース考」
「なんらかの事情」 岸本 佐知子



「私たちが夜、服を脱ぎながらぼんやりと心をさまよわせる、そんな瞬間」っていう表現は、凡百の小説家を超えてませんか!ダース・ベイダーが意識の流れにのって夜のダブリンにさまよい出てしまいそうよ。


他にもプーチンの代わりに同志ボリス・エリツィンの追悼演説原稿を考えてみたり、「国はこれを不服として」の「国」の人格を想像してみたりとか、言葉によって日常がとつぜん非日常になる散文がたくさん収録されています。

言葉の感覚が鋭いから翻訳家になるのか、翻訳家だから言葉の感覚が鋭くなるのか・・・
翻訳家のエッセイって面白いです。


しかし実はこの本で驚いたことがもう1つあって、奥付に

本書をコピー、スキャニング等の方法により無許諾で複製することは、法令に規定された場合を除いて禁止されています。
請負業者等の第三者によるデジタル化は一切認められていませんので、ご注意ください。


いまはこんな注意書きがついてるんですね。

ところで「第三者」って中国語だと「愛人」(配偶者じゃなくて外偶のほう)を思い浮かべてしまうわけですが、最近は「第三者」を「小三」って愛称(?)で呼ぶんですね。
最初見たときは「中二病」みたいなものか?と思っちゃった。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 04月 08日 |
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」
山浦 玄嗣 (翻訳) (イーピックス出版)


聖書の内容はなんとなく知ってても、本文をちゃんと読み通せたことがありません。何度か挑戦したけどいつも途中で落伍してしまう。
「ガリラヤのイェシュー」を読んで、これまでの聖書は訳文が自分に合ってなかったんだなーと思いました。
(クリスチャンじゃないので、宗教書としてではなく翻訳文学として楽しんでいます。英文学などを読むときに教養として必要だからです。)


出版社のサイトより転載

イエスの活動した二千年前のユダヤ社会は厳しい身分制度がありました。
王に家臣、商人や地主などの富裕層。商人や地主のもとには自作農や小作農がいて、 零落した日雇いの労務者、そして奴隷がいました。
そんな混沌とした社会を分かりやすくする為に、 幕末から明治維新かけて使われていた日本語を擬似的に用いることを試みました。
地の言葉「公用語」は関東武家階級の言葉に似せる。
ガリラヤ出身のイエスとその仲間は 東北地方の農民の言葉。
イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う―。

例えば…
ガリラヤ衆はケセン語や仙台弁、盛岡弁。
ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。
領主のヘロデは大名言葉
ファイサイ衆は武家用語
イェルサレムの人々は京言葉。
商人は大阪弁。
サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。
イェリコの人は名古屋弁。
ユダヤ地方の人は山口弁。
ギリシャ人は長崎弁。
ローマ人は鹿児島弁。
全国各地の多彩な方言が飛び交います。



いろんな方言が飛び交って群集劇みたい。
地の文はお武家さんでござる。
ピラト卿は薩摩隼人、イェルサレムの神官たちはお公家さんどす。


「そしたなァ、お助けさァぢゃつちゅう此(こ)んイェシューをば余(おや)は如何(どゲん)したらよかろかい?」
人々は口を揃えて言った。
「磔にしとくれやす!」

マタイ27章-153
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」


いや~京都弁のおかげで神官の意地悪さがよく出てるのでござるよ。
「お助けさま」というのはいわゆるメシアのことでしょう。「救世主」より身近な感じ。

ピラト卿はユダヤ人たちがやいのやいの要求ばっかりしてくるので、最後は「チェストーッ!」と怒ってしまうのでござる。


いいなあ東北弁って、あったかくってと思えたのもこの本を読んでよかった点。イェシューがとっても身近に感じられます。
女の子から悪霊を追い出してやったあと


「この事は(ゴどア)誰に(だれさ)も語りァすんな。あ、それがらな、この童女(わらし)に何が食(か)せでけらっせァ〔食べさせておやりなされ〕。」

マルコ5章-43


ここは口語訳聖書では
イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
のように訳されてるようです(ネットで拾ってきたので不確か)。
訳し方ひとつでまったく違うキャラクターになってますね。


すごく心を打たれたエピソード。
一人の人が「いつでも明るく活き活きと幸せに生きるようにしていただくには、何をすればようございますか?」と聞きにきます。


イェシューさまはその人をつくづくと眺めて、それから、やさしくこう言いなさった。
「お前さんに足らないことが1つある。行って、持っている物を売って乞食どもにくれてやれ。そうすれば神様のお膝元に宝を積むことになる。そうしてから、さあ、俺について来い。」
この言葉を聴いたその人は青菜に塩と萎れ返り、ガッカリして去って行った。大した財産をどっさり持っていたのにでござるぞ。

マルコ10章-59


「さあ、俺について来い。」って親しみがあっていいよね。
すごく感動してたら、イェシューは


「金持ちが神様のお取り仕切りに入るよりも、駱駝が針孔(めど)を潜るほうがまだラクダ!」

マルコ10章-60



ガチョ~~ン!
当たり前ですが普通の口語訳聖書には駄洒落はありませんでした。
面白いダジャレなのにもったいない。誰も思いつかなかったのか?


良いところはたくさんあるのですが、いちばん好きな部分

「お前達の(めァだぢァ)中で偉ぐなりでァど思うものは(ものァ)かえって皆さまの僕になれ。お前達の(めァだぢァ)中で一番目の者になりでァど思う者は(ものァ)皆さまに扱き使われる下人になれ。《人の子》たる俺の志すところは(どゴろァ)、人様を(ひとさまァど)扱ぎ使っていい思いをすることでァねァ。人様のお世話をして差し上げることだ。亦(まだ)、皆々さま大勢(てァぜん)の身代わりになるどって〔なるとて〕、この命(いのぢ)もささげ申(も)すことだ。」

マルコ10章-63



ここは口語訳では
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
となるようです。
雰囲気ぜんぜん違いますね。


読んでよかった。収穫でした。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 04月 04日 |
「中国・電脳大国の嘘 「ネット世論」に騙されてはいけない」
安田 峰俊 (文藝春秋)


とても面白い本です。
「独裁者の教養」の時にも感じたのですが、安田峰俊さんは外国のことを書いても面白いけど、日本のことを書いた部分はもっと鋭くて面白い。

最後の章の日本人が中国を理想化しては裏切られたと落胆して反中に走り、しばらくしてまた中国を美化し・・・を繰り返しているという指摘は日本人として身につまされます。



なぜなら、中国に対して一方的に投影した好意や理想が、中国社会の内在論理に基づく冷酷な現実によって裏切られた場合、日本人は往々にして「中国が変われないのは、彼らが“ダメな国”だからだ!」という中国蔑視的な考えに一気に傾く習性を持っているためだ。(略)
中国は別に日本人の願望を叶えてあげるために存在するわけではない。だが、日本人の間では、この簡単な事実を無視して中国に強い思い入れを抱き、その反応に一喜一憂する「カン違いの歴史」の事例が昔から非常に多く見られるのである。

第5章「変化する中国」の嘘




「中国は別に日本人の願望を叶えてあげるために存在するわけではない。」という部分がいいでしょ。

日本人は数千年に渡って中国を崇めてきたので、思い入れが強いのはまあ仕方ないと思いますが。
あまり中国を責めるのも子供がこんなの理想のパパ(ママ)じゃない!と泣き叫んでるみたいで、いい年して恥ずかしいですよね。


最後に掲げられている著者の今後注意したい点は私も気をつけたいと思います。

1.中国に日本人としての理想を投影して、相手側の動向に一喜一憂しない。
2.中国や中国人を必要以上に蔑視し、思考を停止しない。
3.中国を、日本の価値観の延長線上にある国ではなく「ただの外国」だと考える。



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 02月 06日 |
「水滸伝人物事典」
高島 俊男 (講談社)

絶版なので図書館に通って読んでいます。
amazonの「Kindle化希望ボタン」クリックしときました。Kindle化されるといいな。


登場人物の紹介と登場回が載っていてとても便利。
編集者の人物評も面白い。玉麒麟はいつも利用される可哀想な人物と評されています。燕小乙がいちばん玉麒麟の旨い汁をすすりまくったと書かれていてヒザをたたきました。

原文表記も併記されているのがうれしい。
たとえば「農民」や「下男」の項目の最後に「原文では“荘客”」とあるので助かります。

人名以外にも当時の行政や軍事について詳しく書かれていて水滸伝の時代背景がよく分かります。
欲を言えば衣服や家具や建築物の説明を絵入りで入れてほしかった。武器の説明はあるのに・・・(私は武器はどうでもいいので)


高島 俊男先生は「水滸伝の用語辞典を作っている」とあちこちで書かれています。
あとはzの項目だけだが、中国語はzで始まる言葉が多いから進まないと書いておられたので、中国語のピンイン順なのかと推測しています。
きっと“荘客”も未完成のzのところに入ってるんだろうな~。

私は切実に欲しいのですが、日本で出版するのは難しいのでしょうか。
播磨まで手伝いに行くからデータ見せてください先生・・・



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 01月 28日 |
「宮崎市定全集12 水滸伝」
岩波書店

「水滸伝と江南民屋」を読んで目からウロコがぼろぼろと落ちたので感想を書きます。(とても長いです)

年末から《水滸伝》を読み始めています。(中文版と岩波少年文庫版を並行して)
《水滸》は中国北方の話なので(ですよね?)、家屋は北京の四合院を想定しながら読み進めていたのですが、どうも脳内想定と書いてあることが合わない。

四合院っぽい想定



林教頭の初登場部分を読んでるのですが、民家は二階建てみたいだし、街路と家屋をへだてる石塀や鉄扉や中庭は存在せず、どうやら往来からそのまま部屋に入るみたい?
読みながらどうしても《上海灘》や《黄飛鴻》っぽい建物を思いうかべてしまって困ってました。

上海っぽい


フェイホンっぽい



「水滸伝と江南民屋」を読むと、


さて水滸伝は北宋時代、国都開封府を中心とした華北を主たる舞台とした物語と称せられるが、実際に篇中の人物の行動する背景となっている家屋の構造は、江南の楼房そのままなのである。普通に華北の家屋は平房が殆んどであるとされているのが事実なら、水滸伝の描写は実際とあわない。だから地名は華北の某県となっていても、むしろこれを江南の某市鎮だと思って読んだ方がよく理解できるのである。これは言いかえれば、水滸伝は物語の核心が若し宋代にあったとしても、その完成は遥かに時代の下った明代、しかも場所は蘇州を中心とした江南において行なわれたという通説を裏書するものに外ならない。
水滸伝の物語中の人物の行動が屋内で行われる時、その推移を理解する為には、その背景をなす家屋の構造を知らなければならない。そしてこの事はさまで困難なことではなく、ごく最近まで存在した上海近郊の市鎮の楼房を以て代用することが出来ると知ったのは、私にとって大きな発見であった。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝



とありました。そうか!そうだったのか!とこれだけでも目からウロコですが、そのあと実際の民家の平面図も交えた詳細な説明があってとても嬉しかった。


この一間房子は、表から入った所が略々正方形の部屋で堂、又は庁(座敷)と言い、その奥に同じ程の面積の厨(台所)がある。厨から階段で二階に通じ、二階は房(寝室)で、前後二室に仕切られる。この二階建のいわゆ
る楼屋・楼坊は、中国人に最小限度必要な生活空間であり、その原則は平家、すなわち平房と同一である。平房は左右に長く、奥行の浅い矩形の建物を主体とし、中央の室が庁で、その右(又は左)に厨があり、左(又は右)に房がある。房は普通前後の二室に仕切られる。さてこの一房を切り離して、庁・厨の上に重ねて二階とし、その方角を直角に向けかえれば、 一間房子の楼房となるのである(第一図、第二図)。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝



画像無断転載



原著の挿絵もありました



上海の老房っぽい建物を想像して正解だったんですね。
門扉の説明。


街路に面した一間房子の入口、大門は、四枚の門扉によって区切られている。この屏は日本で明治頃まで主婦が使用した張り板のような恰好をした細長い頑丈な板戸で幅が約二尺(六六糎)、高さ約六尺位である。蝶番を用いず、片側の上下につけた枢(とぼそ)を軸として回転すること、日本古建築の門扉と同様である。注意すべきことはこの扉は閉った時には、どんなに力を用いて揺っても、上下にも左右にも微動だにしない。従って取り外すことも出来ない。若し取り外そうと思えば扉を直角に開けると、枢を上へ持ち上げて外すことが出来る。そこで家人は門を閉めた後に、内部に門をさし、左右の扉を密着固定させる。こうすれば扉を開くことも、取外すことも出来ない。従って内部からは錠前を用いずに戸締りが出来るのである。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝




その武大の帰る頃を見計らって、軒に吊した葦簾(よしすだれ)を取込むのが金蓮の日課となっている。前述のように表口の扉は板戸であるから閉めてしまうと、内部が真暗になる。己むを得ず中央の二枚を開け放しにしておくのだが、そうすると今度は、通りから内部が丸見えになる。そこで葦を編んだ簾を下げて目隠しにするので、夕方になれば簾を外して内に取りこみ、扉を引き寄せておくのである。
ある夕方、金蓮が掛竿を右手に持ち、簾を外そうとして受けとめ損ね、折しも往来を通行中の男の頭巾の上に落とした。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝



「葦簾」の部分は原文では「當日武大將次歸來,那婦人慣了,自先向門前來叉那簾子。」(第二十四回 王婆貪賄說風情 鄆哥不忿鬧茶肆)(以下下線ブログ主)

扉にはすだれを吊るしてあったんですね。
ここの部分↓の謎が解けました。


陸虞候道:“阿嫂,我同兄長到家去喫三盃。”林沖娘子趕到布簾下叫道:“大哥,少飲早歸。”林沖與陸謙出得門來

水滸傳(維基文庫)
第七回 花和尚倒拔垂楊柳 豹子頭誤入白虎堂



林教頭は官職はなくても禁軍の武術コーチなのでそれなりの家に住んでるんだろうに、なぜドアにカーテンがぶらさがっているのだろうか?なんか京の町家か大阪の商家みたいじゃない?
と思ったのですが、実際に扉にカーテンがさがっていたのですね。

そしてこれまた謎に感じた二階建てについて。


厨房の側壁に階段を設けて二階へ上る通路とするが、この階段は粗末な掛梯子にすぎないものから、側面に抽出しの取手を取りつけた胡梯、すなわち箱梯子まで、いろいろな形態がある。
厨房から上ってゆく階段であるから、その出口は当然、二階の一裏側の室である。ところでこの部屋は出入口に近いので、機能の上から言ってこれを前房と称することは注意されてよい。前房から房門によって表側の室に通ずるが、これがすなわち後房である。後房とは言いながらその正面の窓は大門の真上に当たり、その下は市人の往来する街路なのである。
前房は裏側に窓を設けて光線を採る。階段の上り口、楼門には必要があれば蓋をかぶせて、階下との交通を遮断するような仕掛けも出来ている。穴蔵に蓋をするようなものだと思えばよい。長期に亘って留守し、二階を使用しない時などに、この仕掛が必要である。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝




当てつけられたと思った金蓮は腹を立てて、階段を駆け下りると中途に立止って、散々武松に悪態をついてから厨に下り立ち、再び二階へ上ろうとしない。この家の階段が胡梯とあるのは、箱梯子であって、小箪笥を積み重ねたような段梯子であるから、踏段の面が広く、どんなに長く毒づいていても、足許がびくともしないのだ。

「水滸伝と江南民屋」
宮崎市定全集12 水滸伝




林娘子が夫が倒れたと陸謙の自宅におびき出される場面で、酒楼じゃあるまいし士大夫の家がどうして二階建てなのかと不思議でしたが、江南の民家だから二階建てなんですね。
しかも勝手に二階にあがっちゃって・・・と思ったのですが、民家はどれも同じつくりなので、親友同士で飲むなら二階に決まってると咄嗟に階段を上がったのでしょう。

この部分です。

直到太尉府前小巷內一家人家。上至樓上,只見桌子上擺著些酒食,不見官人。恰待下樓,只見前日在嶽廟裏囉娘子的那後生出來道:‘娘子少坐,你丈夫來也。’錦兒慌慌下得樓時,只聽得娘子在樓上叫殺人

第七回 花和尚倒拔垂楊柳 豹子頭誤入白虎堂




そして林教頭が陸謙の自宅に駆けつけてみると門が閉まっているので「女房、開けろ!」と叫ぶ場面。
禁軍の武術コーチが門の前につったって「開けて~」と呼んでるのはあまりにマヌケ・・・※と思ってたのですが、中から閉めてしまうと外からは開けられないつくりになっていたのでしょう。


三步做一步跑到陸虞候家,搶到胡梯上,卻關著樓門,只聽得娘子叫道:“清平世界,如何把我良人妻子關在這裏?”又聽得高衙內道:“娘子,可憐見救俺。便是鐵石人,也告的回轉。”林沖立在胡梯上叫道:“大嫂開門。”那婦人聽的是丈夫聲音,只顧來開門。高衙內喫了一驚,挖開了樓窗,跳牆走了。林沖上的樓上,尋不見高衙內,問娘子道

第七回 花和尚倒拔垂楊柳 豹子頭誤入白虎堂



林夫妻と侍女が帰宅する途中、近所の家がすべて門を閉ざして街路には誰もいないという描写も、四合院のように立派な石塀と鉄扉のある邸宅が立ち並んでいるのではなく、町家がいずれも板戸をぴったり閉めきって、背後で息を殺して覗いている様子を想像するほうがよいのかと思いました。


將娘子下樓,出得門外看時,鄰舍兩邊都閉了門。女使錦兒接著,三個人一處歸家去了。

第七回 花和尚倒拔垂楊柳 豹子頭誤入白虎堂



宮崎市定先生のご本は素晴らしい。
もっとこういう解説を読みたいのですが、出版されてないんでしょうか?



※このシーンについては「高衙内と鉢合わせしてしまうとまずいので、わざと大声を出して逃げる時間を与えた」と《百家講壇》で言ってました。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]
2013年 01月 25日 |
宮崎市定全集12 水滸伝
岩波書店

「水滸伝的傷痕」「宋江は二人いたか」「水滸伝と江南民屋」が収録されています。

水滸伝の後半がつまらない理由がズバリ指摘されていました。

四十回以後が精彩を欠くのは、それから後が軍記物になったのも一つの主な理由である。集団戦争になって了うと、個人の存在が没却されて、個性を発揮する余地に乏しい。作者は努めてこの単調を打破ろうとして、楊雄や慮俊義の家庭騒動を点綴するのであるが、内容も平几で西門慶事件の筆致に比ぶべくもなく、無用の重複だという感を与える。
四十回以後が面白くない他の大きな理由は鼻もちのならない貴族臭である。宣和遺事の呼延綽は何程の地位か分からないが、水滸伝では開国の名将呼延賛の子孫となり、全くその生写しになっている。また花石綱運搬の指使にすぎなかった関必勝は関雲長嫡流の子孫となって、これまた関羽そのままの再来に描こうとしている。尤も既に周密の時から両者の関係が暗示されているが、当時はまさかこんな貴族臭いものではなかったであろう。更に噴飯にたえないのは河北の玉麒麟、慮俊義であって、仰々しい威風の形容は張紙の虎にすぎない。こんな連中がずっと後からのこのこと出てきて、魯智深や武松の上座にむずと坐るのだからやりきれなくなる。市井の豪傑、草沢の英雄から出発した水滸銘々伝は、四十回を過ぎると忽ち貴族化し士大夫化してしまった。

「水滸伝的傷痕」
宮崎市定全集12 水滸伝                                 



「水滸伝的傷痕」って中国語っぽいタイトルですが(傷痕文学みたい)、全文日本語です。

「こんな連中がずっと後からのこのこと出てきて、魯智深や武松の上座にむずと坐るのだからやりきれなくなる。」というのはすべての読者の思いなのではないでしょうか。


そういえば、ドラマの新版《水滸》では席次は呉用と公孫勝が招安準備のために決めたという設定になっていました。朝廷に高値で売りつけるための名簿だから官職や家柄の高い順番なんでしょうね。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]