カテゴリ:■小説・散文・詩文( 5 )
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2016年 09月 18日 |

(「氷と炎の歌」について盛大にネタバレしています。各自回避お願いします)





いま「氷と炎の歌」の第五部を読んでいるのですが、途中でダヴォスが消えてしまったのでやる気をなくしていたところ、突然ジョン・コニントン(Jon Connington)という人物が表れてスタニス不在のストームランズを襲撃してます。
彼が上陸したのが怒りの岬(Cape Wrath)で、ここはダヴォスの領地があるところなのです。玉葱騎士の留守宅が襲われたんだったらどうしようとハラハラしたのですが、ジョン・コニントンが取ったのはグリフィンズ・ルースト(Griffin's Roost)という城でした。

ジョン・コニントンって聞き覚えがあるけど誰だったっけ?と思ってググってみて分かったのは、彼は狂王エイリスの「王の手」だったということ。
狂王エイリスはタイウィン・ラニスターに捨てられてから4人の王の手を任命していますが。いずれも失敗をしでかして死んだり解任されています。

ジョン・コニントンはロバート・バラシオンが反乱を起こしたあと、鐘の戦い(Battle of the Bells)でロバートを取り逃がしてしまい、王の手をクビになったようです。
戦後エッソスへ亡命、酔いどれになって死んだと信じられていたが、実は生きていて復讐のために戻ってきたってことらしい。
ジョンの失脚後コニントン家は狂王エイリスによって領地のほとんどを召し上げられ、ロバート王の即位後はさらにロードの地位まで失ったようです。

コニントン家はストームランズに所領があるんだからバラシオン家の旗手、つまりターガリエン家から見れば陪臣。そんな地方の小領主でも王の手になれるもんなのですね。手ってロード・パラマウントの独占業務かと思ってたよ。

wikiによるとジョン・コニントンはレイガー太子の親友で、王の手になる前は宮廷に出仕していたようなので、そのときエイリス王の目にとまったのでしょうか。ついでにwikiはジョンはゲイでレイガー太子に恋していたという不必要な情報まで教えてくれましたありがとう。


いやそれで怒りの岬(Cape Wrath)なんですけど、ダヴォスはストームズ・エンド包囲戦でスタニスを救ったあと騎士に任じられて怒りの岬に所領と城をもらっています。ダヴォスの城の名前がわからない。
スタニスはロバートに相談もせずにダヴォスを叙任したような印象を受けるのですが、よくそんなに都合よくすぐ住める城があったもんだと不思議に思っていたんですよ。
もしジョン・コニントンが去った直後の居城だったとしたら、今日から入居OKというのもあり得るのかも。


我ながらどうでもいい話でした。
なおダヴォスは一介の土地つき騎士から始まって、いま(第五部)ではロード・オブ・レインウッド、狭い海の提督、王の手(Lord of the Rainwood,Admiral of the Narrow Sea,Hand of the King)の称号を得ています。スタニスのご寵愛ぶりはエイリスのタイゥインに対する厚情より激しい(当社比)。



さらにすごくどうでもいいが、日本語訳では怒りの岬にケープ・ラスとフリガナが振られてて、見るたびにアメリカーンな気持ちになります。



スコットランドに怒りの岬という土地が本当にあるようです。
Cape Wrath/rɔːθ/
A headland at the north-western tip of the mainland of Scotland.



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2015年 06月 18日 |
SFマガジン 2015年 04 月号(品切れ中)の「ハヤカワSF文庫総解説PART1」で懐かしいSF作品に再会し、もういちど読んでみたくなりました。

とくにエリザベス・A.リンの「アラン史略」のタイトルを見たとたん、若かりしころの思い出が・・・
・・・・・・よみがえりません・・・・・・
すごく好きなシリーズだった気がするのに抜群に面白かったことしか思い出せない。

近所の図書館には三部作のうち一冊しかなく、amazonをチェックしても古書ばかり(当然か)。
かつて置き場所に困って処分した本をまた古本で買いなおすというのもどうだろうか・・・自分の売った本かも知れんし・・・
とためらいながら、ふと魔が差してkindleをチェックしてみたら、原書がありました。
しかも一冊500円というお買い得価格。全シリーズ揃えても1500円。そのうえ本棚の負担にならず、おでかけさきで時間があまったときにも気軽に読める電子書籍。



これは「北の娘」ペーパーバックのカバー。
かっこいい。日本版のカバーもとても素敵です。


というわけで記憶の底に眠っていた絶版本も1秒待たずに読める便利な世の中ですが、まあたぶん当分読まないでしょう。

ダウンロードしただけでふたたび眠りにつくこのような本のことをなんと呼ぶのだろうか?
「積ん読」ならぬ「ダウンロー読」?



「ハヤカワSF文庫総解説PART1」は品切れになるのも納得の面白さでした。
目録とか総解説ってなんでこんなに読むのが楽しいのでしょうね。

私も「Dworin ファンフィクション全解説」書くねん!と心に誓った時代があったことを思い出しました。
Dworin Weekまでに着手できるといいな(需要なし)。



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2013年 11月 05日 |
前回の記事が長くなりすぎて肝心の部分が紹介できませんでした。
前回記事「漢文スタイル」



漢詩を白文なしの読み下しのみで掲載している本というのがあるんですね。
そこから日本語における漢詩の二重性の話になって


ともあれ、直読とは原始を字音(どの地域のどの時代の字音かはとりあえず問わずに)そのままで読むことであるから、訓読を軸にして考えると、直読/訓読の「二重性」は原詩/訓読とパラレルになりそうなのだが、じつは二つの「二重性」はすんなりとは重ね合わせられない。直読/訓読の「二重性」では、前者は詩の音声を担い、後者は詩の意味を担う・「訓読漢詩」では、原詩は「視覚的・観念的」であり、訓読こそが「聴覚的・音声的」である。音声を担う項が反対なのだ。
(略)
訓読という行為と訓読されて紙面に定着した文とのあいだを見きわめること。とりわけ、訓読された文が音声の優位性をともないつつ現れるときには、注意が必要である。訓読という行為と読み下しの暗誦とを混同してはならない。
訓読があくまで訳読であるなら、読み下しは何通りもあり得るはずで、たまたま書きとめられた読み下しはさまざまな読みの痕跡の一つに過ぎない。だが、近世後期以降、教育の手段として広まった素読によって、訓読の結果としての音声が訓読という行為に先立って与えられるようになると、読みの痕跡が逆に読みを指示するようになる。漢籍の和刻も、細かい読みが施されたものが増えてくる。それはいずれ忘れられる筌跡であったはずだ。しかし、身体に刻まれた音声の威力は、あなどれない。

「訓読の自由」
「漢文スタイル」
齋藤 希史 (羽鳥書店)




「身体に刻まれた音声の威力は、あなどれない」
本当にその通りですね。


訓読(翻訳)だけならまあそれほど害はなかったと思うんですよね。
外国語が分からないなら何とかして翻訳するしかないんだし。

でもそれを素読して暗誦して、日本語の音として記憶してしまったのが致命的だった。
外国の文字(漢字)が並んでるのを見ても日本語の音で読む習性が身体に叩き込まれてしまった。

それで、子孫が英語や中国語を学ぶときに、外国語を見ているのにそれが外国語の「音」を表しているとどうしても認識できなくなっちゃんたんじゃないかな。


中国語を勉強してると、時々漢字が中国語の文字だとどうしても理解できない(としか思えない)日本人学習者に会います。
皮肉なようですが、中国の文化や歴史がお好きな年配の男性だったりします。

ご本人も頭では分かってるのでしょうが、漢字は中国語の「音」を表しているというのが身体で分からないんだと思う。どんなに努力しても日本の音で読んでしまう。
江戸時代の朱子学を勧めた偉い人とかを恨んでください・・・とお気の毒になります。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2013年 04月 12日 |
【こんな本】

全六十八回 上下本。

最初の「凡例」に「この本は七十回本《水滸》の続きだ」と書いてあります。(凡例ってそういうことを書く部分なのだろうかw)

1940年代の中国には七十回本しか出回ってなかったのかな?と一瞬思ったら、そのあとに「七十回本の後日談には三種類あり、《征四寇》、《後水滸》、《蕩寇志》だ。《水滸》の古本には百回本、百五回本、百十回本などがあり・・・」とちゃんと書いてあったので、百回本etcも読まれていたようです。

張恨水は疎開先には100冊足らずの書物しか持ち出せなかったようで、《水滸》のすべてのバージョンは参照できなかったと断り書きがありました。それでも《宋史》や《金史》を持って逃げたんですね。さすが作家だ。

文体はできるだけ《水滸》に似せるようにしたが、やりすぎると現代の読者に理解不能になるので、まったくの模倣ではないそうです。なかなか上手なパスティーシュになっていて面白かった。

七十回本の続きとはいえ、魯智深の坐化や武松が片腕で敵をやっつける場面は人口に膾炙しているので、話の展開を勝手に変えることはせず、英雄好漢たちの最後はおおむね百回本と同じ。


【内容はこんなの】

七十回本の続きなので、梁山で108人聚義した夜、大宴会で酔っ払った玉麒麟・盧俊義が好漢たちが皆殺しにされる場面を夢で見て汗びっしょりで眼が覚めるところから。「男たちの挽歌」のオープニングみたい。

首尾よく招安のあと、魯智深が坊主は役人になれないと言い出して脱退。他の英雄も各地に散らばって、しばらくは個人の話が続きます。

この小説でいちばん良かったのは孫二娘。
東京で夫の張青と料理屋を経営して繁盛している。

徽宗が宮廷で「お店屋さんごっこ」を開催するというので宮中に呼ばれて、ブースを出店することに。
すると模擬店に乞食が来て食事をめぐんでほしいと頼む。
追い払おうとする孫二娘だが、考えてみれば宮中に乞食がいるはずはない。顔に泥がついているが肌は白く、耳の裏も汚れていないので(さすが孫二娘は眼のつけどころが違う!)きっと皇帝の変装に違いないと気づいて、ご馳走を椀に入れてやると、乞食は黄金をばらまいて去っていった・・・

このあと孫二娘には入宮の命令が下り、徽宗とあわやというところへ張青が!!!という展開を期待したのですが、《水滸》は女色厳禁なので、孫二娘はそのまま家へ帰りましたとさ。つまらんのう・・・


太平を謳歌していた東京の人々でしたが、金が攻め込んできます。
抗日小説なので金=日本です。
魯智深や孫二娘は金兵をバッタバッタと殺しまくりますが(・・・抗日小説ですから・・・、)多勢に無勢、張青が殺されてしまいます。
私は張青のファンなので、日本兵に殺されるのを見るのはつらかった・・・。
孫二娘も重傷を負います。魯智深が連れて逃げようとするのを、張青の遺体を捨てていけないと拒否する孫二娘。
魯智深はやむなく一人で金兵を突破して逃げます。

このあとはほとんど金との戦闘のお話。

梁山の好漢たちは果敢に戦いますが、朝廷の高官たちは腐敗してて愛国心もないので金に負けちゃいます。
徽宗は退位して臣下の張昌明(たぶん記憶違ってる)とかいう人に天下を譲ります。
徽宗が溥儀で、臣下が汪兆銘の暗喩なのかも知れません、分かりません。


孫二娘は生き延びてました。東京で曹正たちと料理店を経営しています。
「金兵に監禁された貴人に食事を運んでくれ」と依頼されて行ってみると、徽宗と皇后がみすぼらしい姿で閉じ込められていました。おいたわしや陛下。
かつて徽宗にもらった黄金をそっと手渡す孫二娘。


原作の《水滸》では好漢たちは金に圧勝しますが、張恨水バージョンではそんな都合よくはいかず、国を蹂躙されて歯噛みしながら一人ずつ退場していきます。悲しい・・・
(でも金はわが国なので悲しいとか呑気なことは言ってられない)


魯智深は史進を連れて出家できる寺を探しもとめるうち、海鳴りを聞いて成仏。
なんか唐突だったわ・・・しかもなぜお供が史大郎?

武松は金の将軍と戦って片腕を失い、宋江と別れの大酒を酌み交わしながら絶命。

宋江は敵に降伏するよう命令されて、李逵と心中。鉄牛けなげだった・・・



面白くないわけではないんですが・・・
でも恋愛小説にしてくれたら大喜びで読んだのに・・・
林冲がほとんど背景だった。張恨水は豹子頭きらいなのかな。
玉麒麟はけっこうピンで出番多かったのに。


前の記事
張恨水 《水滸新伝》 自序


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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2013年 04月 07日 |
張恨水が水滸伝の続編を書いていたのを知って驚きました。(単に無知なだけです)

冒頭に1943年の自序が掲載されてて《水滸新伝》執筆の経緯を説明してあります。
本文より自序のほうが面白い・・・でも中国式の1つのことを言いながら実は別のことをあてこすってるらしい文章でよく分からないところだらけ。

中国の歴史と文学事情にうといブログ主が自序を読んで、ウィペディアの力を借りながら理解したところを書いてみます。間違ってたら本当にごめんなさい。


張恨水は1930年から上海の《新聞報》に長編小説を掲載してました(《啼笑因縁》かな?)。
抗日戦争が始まったあと《新聞報》での連載は中断しました。
想像ですが張恨水が得意なトレンディー・ラブ・ロマンスは戦時下にふさわしくないので掲載しにくかったんでしょう。
そのうち新聞側からちょっとでも抗日っぽい小説なら掲載するからと頼まれ、1939年から南京漢奸を風刺した《秦淮世家》を書きました。(読んでないけどなんかつまんなさそう・・・)

このころご本人は上海を離れて、各地を転々としながら重慶へたどりついてたようですね。《紙酔金迷》みたい。

上海で小説を発表するなら抗日小説しか許されない雰囲気だったようです。
張恨水には不得意なジャンルだったのでしょう、1940年に路線変更して歴史小説に挑戦。
中国男児が侵略戦争で抗戦すれば上海の読者にも受けるし、「敵偽」の嫌疑も逃れられるだろうという作戦です。

北宋を舞台にして岳飛伝を書こうと決めたものの筆が進まず、資料を集めているうちに水滸伝のほうがいいんじゃないの?と思えてきました。
そこで重慶で《水滸新伝》を書いて上海の《新聞報》に寄稿するようになりました。

《水滸新伝》は上海の読者に好評だったようですが、1941年に上海が完全に敵(つまり日本)の手に落ちて連載は中断しました。
原稿はすでに第四十六回まで上海に送ってあり、手元には第四十七回の草稿がありました。友人たちにもっと書けと言われて続きを書こうかなと思っていた1942年、上海で別人が張恨水の名前で続きを連載しているとのニュースがもたらされました(・・・さすが中国・・・)

偽小説の内容までは分からなかったようです。
張恨水は敵の占領下では抗戦小説は書けないだろう、もしかして宋江たちが金(=日本)に降伏するラストになってたりして・・・と心配します。
そんなことになったら戦後自分が誤解されるかも知れないと思った張恨水は全編を書き上げたのです。


・・・そんな経緯で書かれた本だったのですね・・・
戦争中に「戦後の自分の評価」まで考えているところが中国の作家って眼光放遠だと感じました。


民国第一写手张恨水作者:刘继兴

という記事に

他的读者上有鸿儒,下至白丁。被尊为“教授之教授”的大学者陈寅恪也是张恨水的粉丝。早在西南联大之时,陈寅恪身染重疾,双目失明,他请好友吴宓去学校图书馆,借来张恨水的小说《水浒新传》,每日读给他听。


とありました。陳寅恪老師がお好きだったくらいならきっと民衆にも大好評だったのでしょうね。



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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