「中国古典の学び方」
2009年 02月 27日 |
中国語って勉強すればするほど知らないことが増えて、もうどうしていいか分からん!と思うときがありませんか。

レベルが上がってくると、読むものにも文語や古典の引用・もじりが多くなって、でも辞書引いてもよく理解できないし、駅前の中国語教室ではそこまで教えてくれないし、「百度知道」や「雅虎知識」に書いてることもあまり信用できないし。どうやって勉強したらいいのやら。

なにしろ1977年出版の本なので、今では状況はきっと変わってると思うのですが、著者の牛島先生の悩みが他人事と思えません。


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つまり、現代中国語を学習してある程度の段階にまで達したとき、この人たちが必ずといっていいほどぶつかる一つの大きな壁、つまり、現代中国語の中にある文語的な表現、時には純文語文、さらには中国古典の引用等々、をいかに突破したらいいのか、という課題である。
(中略)
こうした人たちから、上記のような文章について「ここはどういう意味ですか?」と具体的に聞かれたら、わたしは、目で見てわかれば、日本語で、これは大体こうこうでしょう、と答えられる。しかし、「こういうものがわかるようになるには、どういうふうに勉強したらいいのですか?」と聞かれると、わたしは返答に窮する。実際、こうしたことは、何十回、何百回あったかわからない。
こういうケースは、決して日中学院だけに限られたことではないはずである。今や日本全国で百数十もあるといわれる、いわゆる民間の中国語講習会で学んでいる人たち、また、ラジオやテレビなどによって学んでいる人たち、さらには、国公私立諸大学で現代中国語を専攻している学生たち、すべてに共通する問題のはずである。

「中国古典の学び方」 牛島 徳次  大修館書店



牛島先生の考え方は



参考までに、ごく大まかにいうと、
第一の問いは、「中国の古典は、中国語を知らなくても読めるのだろうか?」ということで、その答えは、「わたしは、‘読める’とか‘読めない’とかいうことは問題ではなく、中国語で読む以外に‘読む’ということはあり得ない、と考える。」であった。
第二の問いは、「中国の古典は、現代中国語で読んで意味がわかるのだろうか?」ということで、その答えは、「わたしは、中国の古典は、現代中国語で読むだけでは、その意味を知ることはできない、と考える。」であった。
第三の問いは、「中国の古典を学ぶのに、現代中国語はどういう役に立つのだろうか?」ということで、その答えは、「わたしは、現代中国語は古典を学ぶための道具や手段ではなく、その学習自体が根本で、これが基礎として確立したとき、必要に応じ、古典学習の道も開かれる、と考える。」であった。

「中国古典の学び方」 牛島 徳次  大修館書店


まず基礎を確立しないといけないんですね・・・努力します。

しかし結局「コレ!」という具体的な方法は書いてないのでした。自分のレベルに応じて自分で模索するしかないってことか。
日本の古典でも読めるようになりたければ、作品をどんどん読むしか方法はないわけで、中国の古典も読んでいくうちに読めるようになるってことかなー。(我ながらすごく当たり前のことを言ってるだけのような気がするが)
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