「ことばとは何か」
2014年 11月 08日 |
「ことばとは何か 言語学という冒険」
田中 克彦 (講談社学術文庫)

内容紹介
言語学は「ことば」をどこまで理解したのか 人間と切り離せない「ことば」。その本質に言語学はどこまで迫れているのか。日本を代表する言語学者が、その成果と現代世界が直面する言語問題に鋭く切り込む。


著者の本は以前「クレオール語と日本語」を読んだことがあって、そのときはちんぷんかんぷんだったのですが、今回 「ことばとは何か」を読んで「こういうことだったのか」と目からうろこがたくさん落ちました。



「ことば」は、フランス語のラング、ドイツ語のシュプラーヘなどと同様、あくまで一つの概念であるから、その意味もまた単一のものとして示したいのである。ことばを、「言」の「葉っぱ」などと二つに分けて示すような、品の悪いことはしたくない---私はそのような無感覚に耐えられないからである。こころある言語学者はみなそのような思いであろう。
小林秀夫は、その著作の中で、だいたい「コトバ」とカタカナ書きすることが多かったのも、そのような気持ちのあらわれにちがいない。かれは、オオマツヨイグサと同様に、客観性のある学術の用語として用いていることを示したかったのであろう。
ついでに述べておくと、小林秀夫は「チューゴク語」という表記も用いた。本来は「シナ語」としたいところを、出版社から他の漢字表記にとりかえるよう求められたために、やむなくこのようなカナ表記に訴えたのであろう。もちろんかれはそれに応じて「ニッポン文法」という表記も用いた。この伝で行くと「朝鮮語」は「チョーセン語」、あるいはもっと望ましいのは「チョソン語」とすべきであろう。

はしがき
「ことばとは何か 言語学という冒険」






ソシュールの踏み出した一歩が正しいか否かは評価の分かれるところである。かれが示した方法論上の問題については、あとでもう少しのべるが、日本人にとって、もっと正確に言えば、日本語人、つまり、日本語を母語にして育てられ、日本語を使って生きている人々が、特別に心してソシュールに耳をかたむけなければならないのは(中略)、(1)「言語学は規範の学ではない」ということと、(2)「文字はことばの正体をかくすものであって、文字をはぎとったところに、ほんもののことばが現れるのだ」と言っているこの二つの点である、(中略)つまり、ことばを文字で考えるのではなく、オトそのものにたどりついて考えたときに、ことばの実体が現れる。(略)
しかし人間の精神というものは弱いものであって、「オトで考えるのはたよりないので、じっさいには文字に置きかえて考えることが多い。音声学者でさえも、オトそのものではなくて、音声記号に置きかえて考えがちなのだから、そして、文字で人をたぶらかしながら仕事をする人は、オトに感じるからだの感覚をほとんど失ってしまっているのである。

第一章 言語学史から何を学ぶか



私は言語学者ではなくて一外国語学習者にすぎないのですが、中国語を学んでいてどうしても漢字に頼ろうとする自分の弱い心にうちかつのがいちばん大変でした。
音を聞いても意味が分からず、漢字を書いてもらってはじめて理解できるというのは外国語学習としてはやっぱり失敗だと思う。しかしどうしたら音が分かるようになるのかいまだに方法が見つからない。
(ここで言っているのは生まれて初めて聞く単語ではなくて、発音を知っているのに、実際には聞いて分からない単語のことです)


ことばについて何か人工の部分があるとしたら、それは文字だけである。しかしことばは文字をともなって生まれたのではなく、身ぢかにあるどこかの文字を借りてきて使うしかない。日本語が漢字を用いているのはまったく偶然であって、日本語が書かれることを社会が要求したときに、近くには漢字しかなくて、他に選択の余地がなかったからである。もし、漢字以外の、もっと便利な文字があれば、それを用いていたはずである。すなわち、日本語が漢字で書かれているのは歴史的運命であって、自然によってではない。にもかかわらず、いな、だからこそ、漢字の賛美が必要になってくる。欠点の多いものほど、それだけ多くの賛美が必要になってくることは、日々の経験が教えている。

第三章 当面する言語問題



ここが本当に目から鱗鱗鱗。
中国語を深く学ぶほど、漢字は中国語(だけ)を書き表すために作られた文字だと痛感します。
そしてますます日本語とは異質の存在と感じられるようになってきます。
こんなに異様で使いにくい漢字をあれほど褒め称える日本人が多いのはなぜだろう?と疑問だったのですが、「欠点の多いものほど、それだけ多くの賛美が必要」という部分に納得。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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