平仄 「白文攻略 漢文法ひとり学び」
2013年 12月 09日 |
「白文攻略 漢文法ひとり学び」 は本文も素晴らしいのですが、前文の「学習の前に」の文言文についての解説がとても良いのです。
特に中国語の「音」についての説明は他の漢文の解説書であまり触れられない部分だけに貴重。


漢文では、音読のリズムを整えるため、しばしば意味のない助字や接続詞を使う。
「なぜここで、わざわざ、こんな接続詞が出てくるのか?」
「この副詞は、どういう意味なのか?」と理づめで考えても、分からない箇所も多い。漢文の原文を中国語で読むと、それらの字は、音読のリズムを作るための「字数稼ぎ」や「箸休め」であることも多い。

「白文攻略 漢文法ひとり学び」
加藤 徹 (白水社)



そして平仄(つまり声調)について。
古代から現代にいたるまで、日本人の一番苦手な部分なのでしょう。


昔の中国人は、漢文を書く時、平字と仄字のバランスにも配慮した。特に、詩や美文を書く場合はそうであった。偶然、平字ばかり延々と続いたり、逆に仄字がずっと続くと、音読した場合、とても耳障りになる。
漢文法を学ぶ日本人は、似たような意味の単語が多いことを不思議に感じる。
例えば「如~」と「若~」は、両方とも「~ごとシ」(~のようである)という同じ意味である。なぜ、どちらか一つに統一しないのか。実は「如」は平字で、「若」は仄字なのだ。昔の中国人は、音読の響きを整えるために、意味は同様でも平仄が違う感じを、いろいろキープしていた。




平仄については本文でも時々出てきて、第十六課の「使役」でも「教」「使」「令」について

「教」は、本来は「教ふ」(教える)という動詞、あるいは「教へ」(教え)という名詞。転じて「~させる」という助動詞にもなる。
漢字の「平仄」で言うと、「使」「令」は仄字だが、「教」は平字である。「教」が普及した一因は、漢詩の「平仄」にある。





同じことを高島俊男先生も「ほめそやしたりクサしたり」でおっしゃってました。



まず「一者」「ニ乃」「三來」に注目。日本語に訳せば、一つには、二つには、三つには、くらいにしかならないが、こんなふうに同じことを言うのにいくつものちがった語(それも声調のことなる語)を用意してあるところがかの国の言語の自慢なのだ。そうでないと「対杖」を柱とする独自の言語芸術は成りたたない。たとえば「まるで・・・のよう」というのに「猶」「如」「宛」「似」「若」などいろいろあって、これらを前後の声調との取り合わせや対になる句とのひびきあいによって適宜選択できるようになっているようなのがそれだ。
このばあいはいわばトリオの対で、「一者」と「ニ乃」のところは四音、「三來」のところは六音で、一種の四六の形になっている。もし「三來」も四音だったらこれは音調局促、単調で寸づまりでつまらない。四、四、とたたみかけてきて、そのあと「怎當武松勇力」と六音でのびやかにおさめてあるから読んで気持ちがいいのである。各句末の音も、一句目「纏定」と沈め、ニ句目「難容」と沈め、三句目「勇力」としっかりおさえて、これも無意識裡にかもしれぬが重い音と軽い音の交替変化が法にあっている。ただしここのところが特にうまいというのではなく、当時すでに千数百年の歴史をもつありきたりの技巧なのであるが、二重に下等な口語文芸にもそれがちゃんとひきつがれていることにちょっとご注意いただくしだい。

「ほめそやしたりクサしたり」
中国白話小説への御招待---水滸伝



分かってる人には分かってることなんですね。
けど、こういうことを中国語学習の現場では教えてもらえないのが悲しい。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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