「漢文スタイル」 訓読の自由
2013年 11月 05日 |
前回の記事が長くなりすぎて肝心の部分が紹介できませんでした。
前回記事「漢文スタイル」



漢詩を白文なしの読み下しのみで掲載している本というのがあるんですね。
そこから日本語における漢詩の二重性の話になって


ともあれ、直読とは原始を字音(どの地域のどの時代の字音かはとりあえず問わずに)そのままで読むことであるから、訓読を軸にして考えると、直読/訓読の「二重性」は原詩/訓読とパラレルになりそうなのだが、じつは二つの「二重性」はすんなりとは重ね合わせられない。直読/訓読の「二重性」では、前者は詩の音声を担い、後者は詩の意味を担う・「訓読漢詩」では、原詩は「視覚的・観念的」であり、訓読こそが「聴覚的・音声的」である。音声を担う項が反対なのだ。
(略)
訓読という行為と訓読されて紙面に定着した文とのあいだを見きわめること。とりわけ、訓読された文が音声の優位性をともないつつ現れるときには、注意が必要である。訓読という行為と読み下しの暗誦とを混同してはならない。
訓読があくまで訳読であるなら、読み下しは何通りもあり得るはずで、たまたま書きとめられた読み下しはさまざまな読みの痕跡の一つに過ぎない。だが、近世後期以降、教育の手段として広まった素読によって、訓読の結果としての音声が訓読という行為に先立って与えられるようになると、読みの痕跡が逆に読みを指示するようになる。漢籍の和刻も、細かい読みが施されたものが増えてくる。それはいずれ忘れられる筌跡であったはずだ。しかし、身体に刻まれた音声の威力は、あなどれない。

「訓読の自由」
「漢文スタイル」
齋藤 希史 (羽鳥書店)




「身体に刻まれた音声の威力は、あなどれない」
本当にその通りですね。


訓読(翻訳)だけならまあそれほど害はなかったと思うんですよね。
外国語が分からないなら何とかして翻訳するしかないんだし。

でもそれを素読して暗誦して、日本語の音として記憶してしまったのが致命的だった。
外国の文字(漢字)が並んでるのを見ても日本語の音で読む習性が身体に叩き込まれてしまった。

それで、子孫が英語や中国語を学ぶときに、外国語を見ているのにそれが外国語の「音」を表しているとどうしても認識できなくなっちゃんたんじゃないかな。


中国語を勉強してると、時々漢字が中国語の文字だとどうしても理解できない(としか思えない)日本人学習者に会います。
皮肉なようですが、中国の文化や歴史がお好きな年配の男性だったりします。

ご本人も頭では分かってるのでしょうが、漢字は中国語の「音」を表しているというのが身体で分からないんだと思う。どんなに努力しても日本の音で読んでしまう。
江戸時代の朱子学を勧めた偉い人とかを恨んでください・・・とお気の毒になります。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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