「ガリラヤのイェシュー」
2013年 04月 08日 |
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」
山浦 玄嗣 (翻訳) (イーピックス出版)


聖書の内容はなんとなく知ってても、本文をちゃんと読み通せたことがありません。何度か挑戦したけどいつも途中で落伍してしまう。
「ガリラヤのイェシュー」を読んで、これまでの聖書は訳文が自分に合ってなかったんだなーと思いました。
(クリスチャンじゃないので、宗教書としてではなく翻訳文学として楽しんでいます。英文学などを読むときに教養として必要だからです。)


出版社のサイトより転載

イエスの活動した二千年前のユダヤ社会は厳しい身分制度がありました。
王に家臣、商人や地主などの富裕層。商人や地主のもとには自作農や小作農がいて、 零落した日雇いの労務者、そして奴隷がいました。
そんな混沌とした社会を分かりやすくする為に、 幕末から明治維新かけて使われていた日本語を擬似的に用いることを試みました。
地の言葉「公用語」は関東武家階級の言葉に似せる。
ガリラヤ出身のイエスとその仲間は 東北地方の農民の言葉。
イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う―。

例えば…
ガリラヤ衆はケセン語や仙台弁、盛岡弁。
ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。
領主のヘロデは大名言葉
ファイサイ衆は武家用語
イェルサレムの人々は京言葉。
商人は大阪弁。
サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。
イェリコの人は名古屋弁。
ユダヤ地方の人は山口弁。
ギリシャ人は長崎弁。
ローマ人は鹿児島弁。
全国各地の多彩な方言が飛び交います。



いろんな方言が飛び交って群集劇みたい。
地の文はお武家さんでござる。
ピラト卿は薩摩隼人、イェルサレムの神官たちはお公家さんどす。


「そしたなァ、お助けさァぢゃつちゅう此(こ)んイェシューをば余(おや)は如何(どゲん)したらよかろかい?」
人々は口を揃えて言った。
「磔にしとくれやす!」

マタイ27章-153
「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」


いや~京都弁のおかげで神官の意地悪さがよく出てるのでござるよ。
「お助けさま」というのはいわゆるメシアのことでしょう。「救世主」より身近な感じ。

ピラト卿はユダヤ人たちがやいのやいの要求ばっかりしてくるので、最後は「チェストーッ!」と怒ってしまうのでござる。


いいなあ東北弁って、あったかくってと思えたのもこの本を読んでよかった点。イェシューがとっても身近に感じられます。
女の子から悪霊を追い出してやったあと


「この事は(ゴどア)誰に(だれさ)も語りァすんな。あ、それがらな、この童女(わらし)に何が食(か)せでけらっせァ〔食べさせておやりなされ〕。」

マルコ5章-43


ここは口語訳聖書では
イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
のように訳されてるようです(ネットで拾ってきたので不確か)。
訳し方ひとつでまったく違うキャラクターになってますね。


すごく心を打たれたエピソード。
一人の人が「いつでも明るく活き活きと幸せに生きるようにしていただくには、何をすればようございますか?」と聞きにきます。


イェシューさまはその人をつくづくと眺めて、それから、やさしくこう言いなさった。
「お前さんに足らないことが1つある。行って、持っている物を売って乞食どもにくれてやれ。そうすれば神様のお膝元に宝を積むことになる。そうしてから、さあ、俺について来い。」
この言葉を聴いたその人は青菜に塩と萎れ返り、ガッカリして去って行った。大した財産をどっさり持っていたのにでござるぞ。

マルコ10章-59


「さあ、俺について来い。」って親しみがあっていいよね。
すごく感動してたら、イェシューは


「金持ちが神様のお取り仕切りに入るよりも、駱駝が針孔(めど)を潜るほうがまだラクダ!」

マルコ10章-60



ガチョ~~ン!
当たり前ですが普通の口語訳聖書には駄洒落はありませんでした。
面白いダジャレなのにもったいない。誰も思いつかなかったのか?


良いところはたくさんあるのですが、いちばん好きな部分

「お前達の(めァだぢァ)中で偉ぐなりでァど思うものは(ものァ)かえって皆さまの僕になれ。お前達の(めァだぢァ)中で一番目の者になりでァど思う者は(ものァ)皆さまに扱き使われる下人になれ。《人の子》たる俺の志すところは(どゴろァ)、人様を(ひとさまァど)扱ぎ使っていい思いをすることでァねァ。人様のお世話をして差し上げることだ。亦(まだ)、皆々さま大勢(てァぜん)の身代わりになるどって〔なるとて〕、この命(いのぢ)もささげ申(も)すことだ。」

マルコ10章-63



ここは口語訳では
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
となるようです。
雰囲気ぜんぜん違いますね。


読んでよかった。収穫でした。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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