張恨水 《水滸新伝》 自序
2013年 04月 07日 |
張恨水が水滸伝の続編を書いていたのを知って驚きました。(単に無知なだけです)

冒頭に1943年の自序が掲載されてて《水滸新伝》執筆の経緯を説明してあります。
本文より自序のほうが面白い・・・でも中国式の1つのことを言いながら実は別のことをあてこすってるらしい文章でよく分からないところだらけ。

中国の歴史と文学事情にうといブログ主が自序を読んで、ウィペディアの力を借りながら理解したところを書いてみます。間違ってたら本当にごめんなさい。


張恨水は1930年から上海の《新聞報》に長編小説を掲載してました(《啼笑因縁》かな?)。
抗日戦争が始まったあと《新聞報》での連載は中断しました。
想像ですが張恨水が得意なトレンディー・ラブ・ロマンスは戦時下にふさわしくないので掲載しにくかったんでしょう。
そのうち新聞側からちょっとでも抗日っぽい小説なら掲載するからと頼まれ、1939年から南京漢奸を風刺した《秦淮世家》を書きました。(読んでないけどなんかつまんなさそう・・・)

このころご本人は上海を離れて、各地を転々としながら重慶へたどりついてたようですね。《紙酔金迷》みたい。

上海で小説を発表するなら抗日小説しか許されない雰囲気だったようです。
張恨水には不得意なジャンルだったのでしょう、1940年に路線変更して歴史小説に挑戦。
中国男児が侵略戦争で抗戦すれば上海の読者にも受けるし、「敵偽」の嫌疑も逃れられるだろうという作戦です。

北宋を舞台にして岳飛伝を書こうと決めたものの筆が進まず、資料を集めているうちに水滸伝のほうがいいんじゃないの?と思えてきました。
そこで重慶で《水滸新伝》を書いて上海の《新聞報》に寄稿するようになりました。

《水滸新伝》は上海の読者に好評だったようですが、1941年に上海が完全に敵(つまり日本)の手に落ちて連載は中断しました。
原稿はすでに第四十六回まで上海に送ってあり、手元には第四十七回の草稿がありました。友人たちにもっと書けと言われて続きを書こうかなと思っていた1942年、上海で別人が張恨水の名前で続きを連載しているとのニュースがもたらされました(・・・さすが中国・・・)

偽小説の内容までは分からなかったようです。
張恨水は敵の占領下では抗戦小説は書けないだろう、もしかして宋江たちが金(=日本)に降伏するラストになってたりして・・・と心配します。
そんなことになったら戦後自分が誤解されるかも知れないと思った張恨水は全編を書き上げたのです。


・・・そんな経緯で書かれた本だったのですね・・・
戦争中に「戦後の自分の評価」まで考えているところが中国の作家って眼光放遠だと感じました。


民国第一写手张恨水作者:刘继兴

という記事に

他的读者上有鸿儒,下至白丁。被尊为“教授之教授”的大学者陈寅恪也是张恨水的粉丝。早在西南联大之时,陈寅恪身染重疾,双目失明,他请好友吴宓去学校图书馆,借来张恨水的小说《水浒新传》,每日读给他听。


とありました。陳寅恪老師がお好きだったくらいならきっと民衆にも大好評だったのでしょうね。



今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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