「寝言も本のはなし」
2013年 02月 03日 |
「寝言も本のはなし」
高島 俊男(大和書房)

白話小説についての文章が目当てで読んだのですが、高島先生は本当にどうしてこんなに中国人のことが分かるの!?と驚いた部分があったので長くなりますが引用します。


中国人は、今世紀の初めから、熱心に西洋のマルクス主義を取り入れ、世紀のなかば以後はこれが国是となった。今になって、そもそもマルクス主義は中国にはあっていなかったのだ、という人もあるが、わたしはそうは思わない。中国人の持っている学問のイメージに、 マルクス主義はびったりだったのであり、だから受け入れられたのである。
孔子の学問が有効性を失ったあと、その位置を代替するのに、マルクス主義以上のものはなかっただろう。――真理は、意外にも、わが孔子ではなく、西方の偉人によってすでにあますところなくあきらかにされていたのだ。世界万般の事象は、マルクス、エンゲルスらの先哲が書きのこした書物を参照すれば、すべてきれいに解釈がつく。のみならず、それらの書は、人類の進むべき道も、明快に指し示してくれている。
こんにちの中国では、かつて孔子の書を「経典」と呼んだごとく、マルクスらの書を「革命経典」と呼ぶ。革命経典は学問全体を統括する不可侵の上位学問であって、その原理はどの個別の学問にも適用できる。
またそれは最終的な真理のよりどころであって、いかなる問題が生じた際、いかなる事態に遭遇した際も、そこへ立ちかえれば正しい解答が用意されている。
自己の見解を述べてゆく際も、節目節目に「その証拠にはマルクスが(あるいはレーニンが)こう書いている」とさしはさめば、その見解の正しさが保証されたことになる。そのように、絶対に信頼できる真理の書を擁している、ということで中国人は安心できるのである。

「本の並べかたについて」

「寝言も本のはなし」 高島 俊男


中国人ほどお金が好きな人たちが、お金儲けを禁じる社会主義を選んだ理由がぜんぜん分からずにいました。
でも、経済体制の問題ではなかったのですね。
中国人は「絶対的に正しい聖人の書いた真理の書」がなければ、そしてそれを引用しなければ生きていけないのでしょう。

中国人のスピーチを聞くと数語ごとに最新の政治的スローガンを引用する人が多い。(とくに地方の役人)
「自分の意見を言えずにスローガンばかり言わされてかわいそう」と思っていたのですが、彼らは「正しい文書を適切に引用できるすごい俺様」に酔っているんですね。かわいそうと思った私が世間知らずでした。


しかし自分と合わない「真理」を強要されて苦しんだ中国人もいた、というのが許政揚という文革で殺された学者の業績を集めた《許政揚文存》の書評。


この書物におさめられた許政揚の著作のうち、最もととのった、質の高いものは「宋元小説戯曲語釈(二)」である。しかし、彼の悲劇は、「話本徴時」の二則、「簡帖和尚」と「戒指児記」に最もよくあらわれている。前者は「所由」という語を手がかりにこの小説が元初の作であることを論じ、後者は駙馬の招選の対象および手続きからこの小説が明人の筆になることを説く。いずれも間然するところない考証である。そしていずれも、考証が終ったあとに、「封建政治」「暗黒統治」「典型意義」等々論旨と無関係なステレオタイプの不要の文字がえんえんとつづく。元来「厳正にして荀くもせず、学を論じ人を観るにいささか稍かも寛瑕なき」人が、かかる庸俗陳腐の文字を錦の御旗としてかかげねばならぬ、現にかかげつつある、そのくやしさなさけなさが彼の胸中に磊塊を積み、肝の病を発し、実生活においてはいよいよ狷介になり、友人同僚の支持を失い、ついには文革勃発が引き金となって悲惨な死をもたらすのである。


周汝昌が序文を書いているそうです。読んでみたい・・・


白話小説は「売油郎」の紹介でした。
花魁がけなげでかわいい。


中国の文学は、―― いやそもそも、西洋のものを言うのと同じ「文学」という呼び名をもちいることが混乱のもとなのだが、ほかに適当な言いかたもないからそう言っておきます――その中国の文学は、言語を素材とする芸術なのであるから、これを翻訳して、つまり他の言語による説明でもってその価値をつたえることは不可能である。
いやもちろん、「何を言っているか」をつたえることはできますよ。しかしそれは、上にのべたように、絵を口で説明するのと同じで、芸術としての価値をつたえることはできない。だから水滸伝や三言が傑作だといっても、翻訳をよんだのではどこが傑作なんだかちっともわからない。ストーリーを日本語でのべてあるだけなのだから。
(略)

『文選』のばあいは、言語そのものが作品なのである。根本的に性格がちがうのだ。ヨーロッパの文学が世界中で読まれているからといって、中国の古典文学を翻訳して世界中の人にそのよさを知ってもらおう、なんてのは、まるっきリナンセンスである。
どちらが上ということではない。こちらは芸術なのであり、あちらは芸術ではなく「文学」というものなのだ。
さてお話もとにもどって、そういう言語の芸術という性格は、もともとは文言の作品についてのみ言われ得ることである。ところがおそろしいもので、中国という環境で生れ育つと、本来芸術の資格のないはずの口語小説も、おのずから芸術的達成への道を歩みはじめ、それはそれで数百年にわたって練りあげられ成熟して、十六世紀後半から十七世紀前半のころには、後世がさかだちしても越えることのできない水準にいたった、つまリベートーヴェンが生れちゃったわけで、それが水滸と三言だ、というしだいなのである。だからあたしは文章のことばつかり言うわけだ。
長い説明でした。おつかれさま。

「中国白話小説へのご招待」

「寝言も本のはなし」 高島 俊男


高島 俊男先生は女性に同情できる珍しい方だと思います。
とりわけ旧中国の研究家は女なんて眼中にない人ばっかりって気がするので珍貴だと感じられます。

今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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