「ほめそやしたりクサしたり」
2013年 01月 22日 |

「ほめそやしたりクサしたり」
高島俊男(大和書房)

エッセイ集ですが、「中国白話小説への御招待」という章は雑誌『中国語』に発表されたものなので、読者対象は中国語学習者です。
とても良いことがたくさん書いてあります。


この前、「三言」と『水滸伝』が口語文のベートーヴェンだと言ったが、三言にしろ水滸にしろ、はじめからしまいまでベートーヴェンというわけじゃない。(略)
小生がベートーヴェンと言うのはこの最後のもので、「賣油郎」などがその代表です。御用とお急ぎのかたは、この「賣油郎」一つでいいから、声を出して読んでみてください。ベートーヴェンを実感できるから(発音のわからない字はかならず新華字典で調べてくださいよ。いいかげんにとばし読みしちゃベートーヴェンは姿をあらわしてくれません)。
さてそこで水滸伝だが、これは三言とちがってはじめからしまいまでひとつづきの話だけれど、実はこれも編纂ものなんだ。部分部分によって書いた人もちがうし、文章のスタイルも質も大きくちがう。一人の作家がはじめからしまいまで通して書いた近代の長篇小説なんかとは全然ちがうものなのである。翻訳するとそのちがいが全部消え失せてしまうから、翻訳なんか読んじゃダメですよ。水滸伝にかぎらず、十九世紀までの中国の文学作品はすべて言語の芸術なんだから、翻訳を読んじゃダメ。わかってもわからなくてもとにかく、発音をしらべて声を出して読んで、音のつながりの美しさを味わう習慣を身につけましょう。なにしろベートーヴェンなんだから!

「ほめそやしたりクサしたり」
中国白話小説への御招待---水滸伝



中国の小説は原文を音読すべしってことですね。
もちろん発音は正確に(←これば難しいのですが)


武松が西門慶を殺す場面の解説。
原文はこの部分。

那西門慶一者冤魂纏定,二乃天理難容,三來怎當武松勇力,只見頭在下,腳在上,倒撞落在當街心裏去了,跌得個發昏章第十一。街上兩邊人,都喫了一驚。


まず「一者」「ニ乃」「三來」に注目。日本語に訳せば、一つには、二つには、三つには、くらいにしかならないが、こんなふうに同じことを言うのにいくつものちがった語(それも声調のことなる語)を用意してあるところがかの国の言語の自慢なのだ。そうでないと「対杖」を柱とする独自の言語芸術は成りたたない。たとえば「まるで・・・のよう」というのに「猶」「如」「宛」「似」「若」などいろいろあって、これらを前後の声調との取り合わせや対になる句とのひびきあいによって適宜選択できるようになっているようなのがそれだ。
このばあいはいわばトリオの対で、「一者」と「ニ乃」のところは四音、「三來」のところは六音で、一種の四六の形になっている。もし「三來」も四音だったらこれは音調局促、単調で寸づまりでつまらない。四、四、とたたみかけてきて、そのあと「怎當武松勇力」と六音でのびやかにおさめてあるから読んで気持ちがいいのである。各句末の音も、一句目「纏定」と沈め、ニ句目「難容」と沈め、三句目「勇力」としっかりおさえて、これも無意識裡にかもしれぬが重い音と軽い音の交替変化が法にあっている。ただしここのところが特にうまいというのではなく、当時すでに千数百年の歴史をもつありきたりの技巧なのであるが、二重に下等な口語文芸にもそれがちゃんとひきつがれていることにちょっとご注意いただくしだい。

「ほめそやしたりクサしたり」
中国白話小説への御招待---水滸伝



1995年当時の『中国語』読者にどの程度この文章の意味が分かったのか知りませんが、私は読んでしばらく魂が抜けてました。いまの私には高島先生がどれほど重大なことを言っておられるのかよく分かります、が、これが1年前だったらまったく理解できなかったと思う。

中国語の文章のかなめは「音」である、それも声調と発音の無数の組み合わせから瞬時に適切な音を選び取ってもっとも美しい配置となるよう心を砕く、しかもすべては無意識のうちに行われる
・・・こんなの読んじゃったらもう怖くて中国語の文章なんて書けません・・・・


同様のことは《現代漢語》『間違いだらけの漢文―中国を正しく理解するために』にも書いてあったのですが、そのときは「どうせ中国人のことだからおおげさに言ってるんだろう」と信じてませんでした。
日本人で一般学習者にきちんと説明した人って高島俊男先生以外にはあまりいないのでは?(私が無学なだけか?)

「中国語の○○と●●って何が違うの?」と疑問に思うことがよくありますが、品詞が違うとか、、口語と文語の違いとかの他に「音節の数」「声調」の違いもありえるってことですよね。
「音節の数」の違いは日本の中国語のテキストにも載ってますが、「声調」の違いを指摘してるのは見たことがありません。


夏目漱石の漢文について書かれた「『木屑録』のこと」という文章にも声調について説明がありました。


わたしが特に感心するのは、たとえば「乃」(nǎi)の使い方が適切で、まことにぴったりしていることである。「乃」は日本語で言えば「そこで」だが、時間的なら一拍かニ拍の間(ま)がある。空間的ならまっすぐではなくぐるりとまわってくる。気持の上ならためらいやたゆたいがある。そういう気分の「そこで」である。なお、同じ「そこで」でも「遂」(suì)ならば曲折もなくスッと行く「そこで」である。

『木屑録』のこと



史記 《張良伝》を読んでいるときに「どーして同じ意味なのに“乃”とか “遂”とか書くんだろう。どれかに統一してくれ」と思ってました。
しかし同じではないのですね。これもおそらく声調と関係があるのでしょう。同じ意味で語感と声調の違う語を常に複数準備しておかなければいけない。恐ろしい言語です。


最後のほうにある汪曾祺の小説『歳寒三友』についての文章にも音節と声調について書かれていました。
民国時代の貧しい毛糸屋の娘が運動靴をねだる場面。


右の「娘は母に買ってと言った」と訳した所、原文は「女兒跟媽要」である。たった五文字、五音節。
欧陽脩が同志とともに『新唐書』を作った時、『旧唐書』に比べて事実は増えたのに次数が減ったことを誇った。昔の文学者は、文章を精煉すること、端的に言えば字の数をギリギリまで削ることに精魂を傾けたのである。(略)
汪曾祺の答が「女兒跟媽要」である。もちろんギリギリに削ってある。余計な字は一つもない。リズムは五言の詩と同じ、ニ、ニ、一。音律は低、上昇、高、高、下降。こころよい音の流れである。わたしの訳はせいぜい短くしてみたが、それでも十四音節。約三倍に間延びしている。これでは話にならぬ。リズムは日本語として耳にこころよい七七にしてみたが、もとより五音のリズムとはまったく別のものである。高低の変化に至っては移しようもない。中国の古典文学の翻訳が多くばかばかしくて読めないのはこれと同じ道理で、作者の最も意を用いたところが影も形もないからである。

墨を惜しむこと金の如し


とても面白くてためになる本でした。が、私の中国語学習意欲は徹底崩壊了。


『歳寒三友』の全文はここ
歲寒三友1
歲寒三友2


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

[PR]