「水滸伝の世界」
2013年 01月 16日 |

「水滸伝の世界」
高島俊男(筑摩書房)


宮崎市定先生の次は、尊敬する高島俊男先生の水滸伝の本を読んで見ました。

「水滸伝の世界」は登場人物、水滸伝のさまざまなバージョン、読みどころなどこれ一冊読めば水滸伝のすべてが分かる入門書です。

特に日本人には分かりにくい文章についての解説がありがたかった。

しからば七十回以前は均質かというとそうではない。第五十回くらいまでとそのあとではだいぶちがう。用語がちがうことは統計的に調べた人があるし、文章の勢いがちがうことは、少し読みなれた人にはわかる。第五十回あたり以降は落ちるのである。
そこまでの所も、さまざまである。おおむね、第五十回あたりまでの、そのまた前半がよい。特にすぐれるのは第三回、魯達(のちの魯智深)の「拳打鎮関西」、第十回、林冲の「風雪山神廟」、第十六回、晁蓋・呉用たちの「智取生辰綱」などの所である。

「水滸伝の世界」
九 武松の十回



第十回「林教頭風雪山神廟」についてはさらに

「風雪山神廟」には、悲愴味を帯びた美しさがある。ここは、語り物演芸の段階を経ていない、白話文の能手が初めから紙に書いた名文である。


《水滸》は講談を紙に書き写したものだとばかり思っていましたが、書き下ろしの作品もあったそうです。たしかに「林教頭風雪山神廟」は名手の時代小説を読んでいるような美しい文体です。(さっきちょっとだけ読んでみた)

高島俊男先生の本はあとがきもとても面白い。今回のあとがきは

学校をやめてから、日本では水滸伝と三国演義(日本ではこれを「三国志」と称している)とを同等にあつかっていることを知って、たいへんおどろいた。
文学作品として見れば、水滸伝と三国演義とでは、その価値に天地の懸隔がある。中国では、そして日本でも中国研究者にとっては、それは自明である。(略)
なぜ日本ではその、月とスッポンほどのちがいがわからないのか。
考えてみれば当然であった。日本人はいずれをも翻訳で読んでいるからである。(略)
ことに水滸伝は白話文(口語文)であるから、日本の漢文屋さんの手におえない。一般の日本人が水滸伝の原文に接する機会はまったくない。そして日本語に翻訳すれば、中国白話小説の最高峰である水滸伝も、『後漢書』『三国志』を抜き書きしてつないだだけの三国演義も文章の性格は消失してスジだけのものになるのである。

文庫版あとがき


《三国演義》ってもしかして文章ヘタクソなんじゃないの・・・?とうっすらと疑問に感じていたのですが・・・
《水滸》もどうせ《三国演義》と同じような本なんだろうと読みもせずに決めつけていた自分が間違っていました。

中国語学習者は手を抜かずに《水滸》を原文で読みましょう。


今日の記事はここまでです。多謝光顧!

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