精舎 「中国人の宗教意識」
2010年 04月 16日 |
岩波文庫の「高僧伝」を読もうと思って一巻で挫折しました。孫権も登場するし、それなりに面白かったのですが全巻読破は無理そうです。

しかしあきらめきれなかったので、訳者の吉川 忠夫氏が書かれた「中国人の宗教意識」にトライ。
あんまり宗教的な話って感じはしなかったのですが、いろいろ興味深い本でした。
(ただし「中国人」と言っても現代人じゃなくて昔の人のことです)

とりわけ王羲之が孫娘を失ったときに書いた手紙には胸を打たれました。
中国の伝統的な考え方では女の孫なんてどうでもいいのかなーと思ってたのですが、そういうものでもないようです。王羲之のファンになりましたよ。


以下本題。

「静室」(道教の建築物)について書かれた章があるのですが、そこに「精舎」の説明がありました。


静室と一見すればまぎらわしい言葉に、「精舎」、時には「静舎」とよばれるものがある。(略)しかし結論を先取りして言うならば、両者の間には静室が主屋とは独立した建築物であるのに対して、他方の精舎は主屋そのものであるという違いが存する。さらに言うならば、道教において精舎の名でよばれるものは、「館」と称されもする道観のことであった。そしてまた静室がそもそも道教に固有のものであったと考えられるのに対して、精舎は道教関係以外の建築物にも、広く用いられる呼称であった(略)。

「1.静室」
『中国人の宗教意識 』
吉川 忠夫(創文社)



具体的な用法として孫策伝の例があげられています。

道士の修行の場は、つとに後漢末ないし三国時代から精舎とよばれていたようであって、『三国志』呉書巻一、孫策伝注の『江表伝』につぎの一文がある。「その頃、琅邪出身の于吉という道士がいた。以前から江南に寓居し、呉や会稽の地方を往来して精舎を建て、香を焼いて道徳経典を読誦し、符や聖水をでっちあげては病気の治療にあたっていた。呉や会稽の人びとの中に多くの信者がいた」。

「1.静室」
『中国人の宗教意識 』
吉川 忠夫(創文社)



魏武の例もあげられてます。


『後漢書』に現れる精舎ないし精盧の主人のおおむねは、三公府や州郡の辟召に応ずることを潔しとはしない「隠居者」たちであった。従って、学塾とはかぎらず、退隠の場所がまた精舎とよばれることもあったようである。『三国志』魏書巻一、魏武帝紀建安十五年条の注に『魏武故事』から「十二月巳亥令」が引かれているが、その中で曹操は、わが雌伏時代を回想しつつつぎのように語っている。「(略)そこで四季折々に故郷にもどり、譙(安徽省毫県)の町の東五十里の地に精舎を築いた。(略)」。

「1.静室」
『中国人の宗教意識 』
吉川 忠夫(創文社)



「精舎」って具体的に何なんだろう?と疑問に思っていたのが解決しました。
しかし三国志と関係なさそうな本でも魏武とお会いするとは、有縁有縁(満足)。







讓縣自明本志令」引用しておきます。


魏武故事載公十二月己亥令曰:「孤始舉孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐為海內人之所見凡愚,欲為一郡守,好作政教,以建立名譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選舉,違迕諸常侍.以為彊豪所忿,恐致家禍,故以病還.去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名為老,內自圖之,從此卻去二十年,待天下清,乃與同歲中始舉者等耳.故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以泥水自蔽,絕賓客往來之望,然不能得如意.後徵為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也.而遭值董卓之難,興舉義兵.是時合兵能多得耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,倘更為禍始.故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦復不過三千人,此其本志有限也.後領兗州,破降黃巾三十萬红.又袁術僭號于九江,下皆稱臣,名門曰建號門,衣被皆為天子之制,兩婦預爭為皇后.志計已定,人有勸術使遂即帝位,露布天下,答言『曹公尚在,未可也』.後孤討禽其四將,獲其人红,遂使術窮亡解沮,發病而死.及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但計投死為國,以義滅身,足垂於後.幸而破紹,梟其二子.又劉表自以為宗室,包藏姦心,乍前乍卻,以觀世事,據有當州,孤復定之,遂平天下.身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣.今孤言此,若為自大,欲人言盡,故無諱耳.設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王.或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿.齊桓﹑晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也.論語云『三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也.昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣,對曰:『臣事昭王,猶事天王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隸,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不敢辱先人之教以忘先王也.』孤每讀此二人書,未嘗不愴然流涕也.孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信者矣,以及子桓兄弟,過于三世矣.孤非徒對諸君說此也,常以語妻妾,皆令深知此意.孤謂之言:『顧我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之.』孤此言皆肝鬲之要也.所以勤勤懇懇衅心腹者,見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故.然欲孤便爾委捐所典兵红以還執事,歸就武平侯國,實不可也.何者?誠恐己離兵為人所禍也.既為子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得為也.前朝恩封三子為侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以為榮,欲以為外援,為萬安計.孤聞介推之避晉封.申胥之逃楚賞,未嘗不舍書而歎,有以自省也.奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也.然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至于邑土,可得而辭.今上還陽夏﹑柘﹑苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也.」


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